南アメリカの歴史

1864年のサンドクリーク虐殺と1890年のウーンデッドニーの戦い――アメリカ先住民政策が残した二つの悲劇

19世紀の大半において、アメリカ合衆国政府は先住民(ネイティブ・アメリカン)に対して「同化政策」を推し進めてきました。この政策は、先住民の文化や宗教を抑圧し、白人多数派社会の生活様式への強制的な統合を目指すものでした。1864年のサンドクリーク虐殺と1890年のウーンデッドニー(負傷した膝)の戦いは、この政策がもたらした悲劇の最もよく知られた例として挙げられます。

同化政策とは何か

同化政策とは、条約で保証された先住民の自治や土地の権利を後回しにし、彼らを「文明化」させることを名目に、言語・宗教・生活習慣の放棄を強いるものでした。保留地(リザベーション)への強制移住や、寄宿学校での母語の使用禁止などもその一環であり、先住民側の抵抗や反発を招き、武力衝突へと発展するケースが少なくありませんでした。

サンドクリーク虐殺(1864年)

1864年11月、ジョン・チヴィントン大佐率いるコロラド民兵団は、現在のコロラド州サンドクリーク沿いにあったシャイアン族とアラパホ族の平和的な村を襲撃しました。民兵たちは150人以上の男性、女性、子どもを殺害し、死者の多くは頭皮を剥がれ、遺体を損壊されるという残虐な扱いを受けました。

この虐殺は全米に衝撃と怒りを広げ、連邦議会による調査が行われました。調査では、チヴィントンとその部下たちが無防備な民間人に対して「無差別かつ意図的な虐殺(wanton massacre)」を行ったと結論づけられました。しかし、責任者が相応の処罰を受けることはほとんどありませんでした。

ウーンデッドニーの戦い(1890年)

1890年12月、現在のサウスダコタ州にあるウーンデッドニー・クリーク(Wounded Knee Creek、「負傷した膝」の意)で、ビッグ・フット(スポッティド・エルク)酋長率いるスー族(ラコタ)の一団が、米軍第7騎兵連隊によって包囲され、虐殺されました。直前の12月15日には、ゴースト・ダンス運動への警戒から著名な指導者シッティング・ブルが殺害されており、地域の緊張は最高潮に達していました。

スー族は政府による保留地への強制移住に抵抗しており、米軍との小規模な衝突を重ねていました。武装解除の過程で発砲が起こると、米軍の圧倒的な火力の前に、逃げ惑う女性や子どもを含む300人近いスー族が命を落としたとされます。ウーンデッドニーの虐殺はこうした対立の頂点となり、以降の平原インディアンによる武装抵抗を事実上終わらせる事件となりました。

二つの悲劇が残したもの

サンドクリーク虐殺とウーンデッドニーの戦いは、先住民に対する同化政策が暴力と蛮行、そして罪のない人々の命の損失を伴うものであったことを示す、最もよく知られた例です。これらの事件は、アメリカ政府と先住民族との関係に深い傷を残し、今日に至るまで歴史の清算と和解をめぐる議論の中で語り継がれています。