南アメリカの歴史

なぜ南部植民地にはコミュニティ・スクールがほとんどなかったのか?その理由を解説

南部植民地にコミュニティ・スクールが少なかった理由

アメリカ植民地時代、ニューイングランド地方では町単位で運営される「コミュニティ・スクール(町立学校)」が広く普及していました。ところが、南部の植民地ではそのような学校がほとんど見られませんでした。その最大の理由は、南部には「コミュニティ(共同体)」そのものが存在しなかったからです。

プランテーションがコミュニティの代わりだった

南部では、人々が一か所に集まって暮らす町や村が形成されず、代わりに広大なプランテーション(大農園)が地域社会の中核となっていました。タバコや米などの換金作物を生産するこれらの農園は、川沿いなどに点在し、それぞれが経済的にも社会的にもほぼ独立した世界を持っていました。

住民が広範囲に分散していたため、子どもたちが通える中心地に学校を建てることが困難でした。学校設立の前提となる「集まって暮らす人々」という土壌が、そもそも存在しなかったのです。

ニューイングランドとの対比

一方、北部のニューイングランドでは、清教徒たちが教会を中心とした密集した町を築いていました。1647年にはマサチューセッツ湾植民地で「オールド・デラウダー・サタン法」が制定され、一定の戸数以上の町には読み書きの教師や文法学校の設置が義務づけられました。北部では「町=教育の単位」という仕組みが自然に機能していたのです。

南部での代替的な教育手段

学校がなかったとはいえ、南部の子どもたちが完全に教育から切り離されていたわけではありません。裕福なプランター(農園主)の家庭では、イギリスから家庭教師を招いたり、私設の「プランテーション・スクール」を開いたりしました。上流階級の子弟が本国イギリスへ留学するケースもありました。しかし、貧しい白人や奴隷とされた人々にとって、教育の機会はきわめて限られたものでした。

まとめ

南部植民地にコミュニティ・スクールがほとんど存在しなかったのは、町という共同体がなく、分散型のプランテーション社会が広がっていたためです。人口の分散は共同による学校運営を難しくし、教育は各農園ごとの私的な仕組みに委ねられることになりました。これは、アメリカ植民地時代の地域間の教育格差を理解するうえで重要なポイントです。