ジェームズ・マディソンとミズーリ協定の関係
結論から言えば、ジェームズ・マディソンは1820年のミズーリ協定(ミズーリ妥協)には関与していません。この歴史的な政治的合意が成立した当時、マディソンはすでに政界を引退しており、公的な活動から身を引いた生活を送っていました。
マディソンが関与しなかった理由
マディソンは1809年から1817年まで第4代アメリカ合衆国大統領を務めた人物ですが、大統領職を退いた後はバージニア州モントピリアの自宅で隠棲していました。ミズーリ協定が成立した1820年の時点では、彼はもはや政治の第一線にいませんでした。
ただし、マディソン自身はその後も長く存命であり、1836年6月28日、85歳でこの世を去りました。つまり、協定の成立時期に亡くなっていたわけではなく、単に政治への関与を終えていただけなのです。
ミズーリ協定の中心人物たち
この妥協を主導した中心人物は、「偉大な調停者(The Great Compromiser)」と称されたケンタッキー州選出の下院議員ヘンリー・クレイです。クレイは南北の対立を調整し、妥協案の成立に決定的な役割を果たしました。
一方、スティーブン・A・ダグラスは1820年当時まだ幼少でしたが、後に1854年のカンザス・ネブラスカ法を主導し、ミズーリ協定を事実上廃止へと導いた人物として歴史に名を残しています。
ミズーリ協定とはどのようなものだったのか
ミズーリ協定は、奴隷州としてのミズーリの連邦加盟を認める一方で、自由州であるメインの加盟と引き換えに南北の勢力均衡を保ち、さらにルイジアナ買収地域における北緯36度30分以北での奴隷制を禁止するという内容でした。
この取り決めは一時的に南北間の緊張を和らげましたが、奴隷制をめぐる根本的な対立を解消することはできず、やがて南北戦争へと至る要因の一つとなりました。