リンカーンが南部を挑発したという説は事実か?
アブラハム・リンカーン大統領が意図的に南部連合を挑発し、南北戦争の最初の一発を撃たせたという主張がありますが、それを裏付ける確かな歴史的証拠は存在しません。むしろ、リンカーンは終始一貫して内戦の回避と国家統一(ユニオン)の維持に尽力したことが記録に残っています。
リンカーンの妥協の試み
リンカーンは南部諸州に対して複数の譲歩を提示しました。妥協法案への配慮や、すでに奴隷制が存在する州には連邦政府が干渉しないという明確な約束などがその例です。1861年3月4日の就任演説でも、彼は「奴隷制が存在するすべての州において、奴隷制に直接・間接に干渉する権限はない」と繰り返し述べ、南部の懸念を和らげようとしました。
サムター要塞攻撃——開戦の引き金
しかし、こうした努力にもかかわらず、1861年4月12日未明、サウスカロライナ州チャールストン港に位置する連邦軍のサムター要塞に対し、南部連合軍が砲撃を開始しました。これが南北戦争の幕開けとなった出来事です。
当時、要塞の物資は枯渇しつつあり、リンカーンは武力による増援ではなく、食料などの補給を行う方針を表明していました。これはあくまで平和的な措置であり、南部側に先制攻撃の口実を与えるものではありませんでした。しかし、南部連合のジェファーソン・デイヴィス政権は、この補給を連邦政府による「侵略」と受け止め、ピエール・ボーリガード将軍に攻撃を命じました。
歴史家たちの見解
一部には、リンカーンの補給作戦が南部を「最初の一発」へと誘導したという解釈もありますが、これは議論の分かれる見方です。当時の状況では、要塞を放棄すれば北部世論を著しく損ない、一方で武力増援は即座に戦争を招く恐れがありました。リンカーンの選択は、開戦の責任を南部側に明確に帰させる政治的効果を持ってはいましたが、それは「強制」というより、極めて困難な状況下での慎重な判断だったと言えます。
まとめ
結論として、リンカーンが南部に戦争の最初の砲撃を「強いた」という証拠はなく、実際には彼は戦争回避のために最大限の努力を払いました。最初の一発を撃ったのは南部連合軍であり、1861年4月12日のサムター要塞砲撃こそが南北戦争の発端となったのです。