1967年6月3日、フールスビュッテル空港に到着したイラン国王夫妻が、出迎えの群衆に手を振る。
西側のタブロイド紙では、ペルシャに近代的な顔を与える華やかな「理想のカップル」として知られていたモハンマド・レザー・パフラヴィー国王と、その妃ファラ・ディーバ。1967年春、国王夫妻は西ドイツ(連邦共和国)を公式訪問した。ローテンブルク・オプ・デア・タウバーでは民族舞踊を観覧し、ミュンヘンでは絵画コレクションを鑑賞。ボンではキージンガー首相が国王と会談した。しかし、ベルリンではこの国賓訪問に対して激しい抗議行動が起こる。デモ隊への警察の鎮圧は、学生ベンノ・オーネゾルクの射殺という悲劇へと至った。そして旅の最後、6月3日、イランの統治者夫妻はハンブルクを訪問する。そこでも抗議行動が起こり、過酷な警察の鎮圧が待ち受けていた。
警察の護衛のもとでの国賓訪問
警備体制は極めて厳重で、動員された警察官は全国で3万人──国賓訪問としては過去最大規模だった。警察は高速道路を封鎖し、市街地を一掃し、あらゆる場所で亡命者を検問した。当局は抗議行動を恐れ、暗殺の可能性すら懸念していたのだ。国王は冷戦下、ソ連に対抗する西側陣営の重要な同盟者だった。しかしイランの反体制派や左翼学生たちは、アメリカからの巨額の経済・軍事援助を受け、貧困にあえぐ国民を犠牲にして贅沢な生活を送る「専制君主」とみなしていた。
前日:ベルリンでの街頭闘争
ベルリンでは、国王訪問に反対するデモの最中、警察官が学生ベンノ・オーネゾルクを射殺した。
ハンブルクでも当局は数千人の警察官を動員した。潜水士が市中心部の橋を爆発物の有無について調査し、警備部隊は短機関銃を構えて空港を警備し、街路を封鎖した。空気は緊張に包まれていた。前日、西ベルリンでは国王訪問への抗議行動がエスカレートしていたのだ。イランの秘密警察の工作員が木の棒でデモ参加者を殴り、警察はウォーターカノン、騎馬隊、警棒を用いて抗議者に極めて過酷な対応をした。ある警察官は、学生ベンノ・オーネゾルクを至近距離から頭部へ向けて発砲したのである。
市庁舎前広場での最初の抗議
ハンブルク警察は厳しく取り締まった。国王に抗議するデモ参加者が市庁舎前広場から運び出される。
6月3日の正午、国王夫妻がハンブルク市庁舎前に到着したとき、黒い喪の旗と笛を持った怒れる学生たちが、見物人の群れに紛れ込んでいた。「民主主義にはイエス、独裁にはノー!」「殺人者!」との叫び声が上がる。国王夫妻が上院主催の晩餐会でビューズム産のエビ、トリュフ風フィレ肉のロースト、フィルランダー産のイチゴとホイップクリームを味わっている間、警察は市庁舎前広場でのデモを暴力的に解散させた。見物人の拍手の中、警察官は旗を折り、デモ参加者の口から笛を叩き落とし、何人かを逮捕した。この時点ではまだ、警察は状況をコントロールできていた。
歌劇場前で数千人がデモ
午後は港湾クルーズが予定されていた。その後、国王はフィンケンヴェルダーの航空機工場を、王妃はイェニッシュ公園のバルラハ・ハウスを訪問した。多数の見物人の中に紛れ込む者はわずかだった。しかし午後7時7分、国王夫妻が州立歌劇場に到着すると、事態は一変した。ダムトーアヴァルのバリケード前には、とりわけ学生を中心に数千人が集まっていた。その中には黒い旗を振る抗議者たちの姿もあった。「国王を倒せ!」とのシュプレヒコールが響き、卵が黒いメルセデス・ベンツ600の側面の窓に飛んだ。
恐怖と戦慄を撒き散らす騎馬隊
やがてレザー・パフラヴィー国王が、ハンブルク市長ハーバート・ヴァイクマンの隣で歌劇場1階の観客から喝采を受けていたその頃、ダムトーア通りでは突然「騎馬、前へ!」との命令が響いた。目撃者によれば、騎馬隊は何の警告もなく群衆の中へ突っ込んだ。パニックが発生した。デモ参加者と見物人は悲鳴を上げながらシュテファンプラッツ方面へ逃走するが、騎馬警察は人々を追い立て、馬で押しやり、建物の壁に押し付け、馬上から背中を蹴り上げた。
6月3日の夜、警察はダムトーア通りで騎馬隊をデモ隊に投入した。
騎馬隊の後ろから警察官たちが突進した。デモ参加者の一人だった作家ペーター・リュームコルフは、後年こう証言している。「警察官たちはゴム警棒を抜いて群衆に突進し、人々が倒れた。警察官たちは倒れた者たちの上に飛びかかった」。その一方、州立歌劇場では、チェック柄のスカートをまとった優雅なバレリーナたちが、メンデルスゾーンの「スコットランド交響曲」に乗って舞台を舞っていた。
シュテファンプラッツの交通麻痺
中央郵便局前では交通が麻痺し、爆竹が鳴り響き、馬がいなないて前脚を跳ね上げた。ゴルフ・フォック・ヴァルでは血まみれになった人々が車の間をさまよい、恐怖のあまりボンネットを越えて逃げる者さえいた。一方、プランテン・ウン・ブローメン(植物園)の入り口からは、デモ隊のグループが「殺人者ども! 殺人者ども!」とコールを上げていた。
歌劇場ではドニゼッティのオペラの場面が演奏され、プリマバレリーナは、後にハンブルガー・アーベントブラット紙が報じたように「きらめくステップの連続」で観客を魅了した。跳躍や、跳びながら足を何度も交差させる「きらめくアントルシャ」には、特別な拍手が送られた。
一方、街では騎馬隊が後退するとデモ隊は前進を試み、警察官が進むと戦没者記念碑の方へ再び逃げていった。事態は次第に鎮静化していったが、学生たちは次々と市庁舎の方へ移動していった。国王が後ほど別のレセプションに出席する予定だったからだ。
市庁舎前でのゴム警棒と拳骨
そこで、深夜1時間前、警察官たちはデモする学生たちを再び容赦なく追い詰めた。数十人が警棒と拳で殴られ、その後逮捕された。どうやらイランの警備員たちも、警察の黙認のもと介入していたようだ。警察官たちは警察番号を尋ねられても答えず、集会の自由の保障を求める訴えに対して、ある警察指揮官は「基本法(憲法)には興味がない」とそっけなく答えた、と後にデモ参加者は証言している。逃げ惑う学生たちは、初めて「ナチス的手法だ!」と叫んだ。
王妃へのバラの花束
リューベックでの静かな朝を過ごした後、翌日、イランの統治者夫妻がパリへ向けてフールスビュッテル空港を発つとき、雰囲気は平和そのものだった。要人たちは別れの挨拶として、王妃に白い蘭と黄色いバラの花束を贈った。飛行場に整列していた治安警察の音楽隊は、「行かなきゃ、行かなきゃ、市庁舎へ行かなきゃ」という曲を奏でた。
共和国を変えた国賓訪問
1967年11月、ハンブルク大学アウディマックスで学生たちが掲げたスローガンは、学生運動の合言葉となる。
しかしこの平和な光景は幻影だった。国王の国賓訪問は、西ドイツの歴史における転換点となったのである。ベンノ・オーネゾルクの射殺と、政治指導者たちの反応は、多くの学生を激怒させた。ベルリンでは、プロテスタントの牧師でもあったベルリン市長ハインリヒ・アルベルツが、警察の過酷な行動を明確に支持し、ベンノ・オーネゾルクの死についてさえ、デモ参加者の責任だと非難したのだ。ハンブルクでは、1933年にナチスから逃れた市長ヴァイクマンが「暴動」と「無謀さ」を非難し、「自由には限界がある!」と憤然と述べた。
その後数か月、民主主義への信頼を失った学生たちの抗議行動はエスカレートし続けた。警察国家の復活、非常事態法、ベトナム戦争、国家と社会における反動的な構造に対する抗議である。1967年11月、ハンブルク大学アウディマックスでの式典で、学生たちは「礼服(ガウン)の下には千年のカビ臭さ」と書かれた横断幕を掲げた。このスローガンは、翌年には国中へ広がり、共和国を変えていく政治運動の合言葉となったのである。