ヨーロッパの歴史

レコードの勝利――人類の「声を保存したい」という夢が実現するまで

レコードと蓄音機の発明は、人類の古くからの願い――「言葉を保存したい」という夢を実現させました。

何世紀にもわたり、人々は声や音を記録し、再生することを夢見てきました。そしてついにその夢は叶うのです。しかし、レコードが量産されるまでには長い道のりがありました。16世紀末、イタリアの科学者ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ポルタは話し言葉を保存することを着想しましたが、当時の技術水準では実現できませんでした。

それから約200年後の1777年、詩人ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーは「凍った郵便ラッパ」の逸話を語ります。極寒の空の下で郵便配達員が吹き込んだ音がラッパごと凍りつき、暖かい部屋で解けた瞬間に再び鳴り響くという幻想的な物語です。とはいえ、録音の最初の成功までには、さらに100年の歳月が必要でした。

「ハロー」――最初に録音された言葉

1867年のパリ万国博覧会で、フランスの詩人・哲学者シャルル・クロは自動電信機を発表しましたが、まだ音を録音することはできませんでした。その10年後、1877年7月18日、トーマス・アルバ・エジソンが人間の声の録音と再生に初めて成功します。彼は針の先端を付けた振動板を用意し、パラフィンを塗った紙テープの上を滑らせながら、振動板に向かって「ハロー」と大声で叫びました。針を紙テープ上で戻すと、自分の言葉がかすかに聞こえてきたのです。

エジソンとベルリナー、研究競争の時代へ

ほぼ同じ頃、アメリカに移住していたドイツ人エミール・ベルリナーも、音の録音と再生の研究を進めていました。彼は音波を針の水平運動に変換する装置を作り上げます。機械的な振動を、煤(すす)を塗ったガラス板に刻み込み、煤が固まったところで亜鉛のポジ(原盤)を作り、そこからネガ(母型)を製造。このネガをスタンプとして使えば、同じ盤をいくらでも複製できる仕組みです。ベルリナーは1887年にこのアイデアの特許を取得しました。

やがて彼は、煤を塗ったガラス板の代わりにワックスを塗った亜鉛または銅の板を使うようになります。さらにレコードの溝を読み取り、音を聞けるようにする再生装置も開発しました。1888年5月、ベルリナーはレコードと蓄音機を一般に公開します。

1890年には、テューリンゲン地方のケマー&ラインハルト人形工場が、ドイツ初となる手回し式蓄音機を製造しました。エミール・ベルリナーは実験を重ね、加硫硬質ゴムが盤のプレス材として最も適していることを見出します。量産化は目前に思えましたが、実際に実現するまでにはまだ数年を要しました。

シェラック盤の発明

ほどなくしてベルリナーは、レコード製造に硬質ゴムを使うのをやめます。代わりに採用したのは、アメリカで開発された成形材料で、主成分は天然樹脂のシェラックでした。シェラックに各種鉱物質を加えることで、成型しやすく耐久性のある素材が生まれます。そこに煤を混ぜることで、私たちがよく知るあの黒い色合いが生まれたのです。

アメリカでの苦難

1889年にエミール・ベルリナーが設立したアメリカン・グラモフォン社は、まもなく倒産してしまいます。1893年4月、今度はガイスベルク兄弟と手を組み、「ユナイテッド・ステイツ・グラモフォン社」を設立。本社はワシントンに置かれました。同社は少数のレコードと蓄音機を製造しましたが、たちまち資金難に陥ります。そこでベルリナーはフィラデルフィアの投資家たちに自らの構想を売り込み、「ベルリナー・グラモフォン社」が誕生しました。ただし、ベルリナー自身が保有する株式はごく一部にとどまりました。こうして、レコードと再生装置の生産がついに本格始動します。資料によれば、1894年秋までに約25,000枚のレコードと1,000台の再生機が工場から出荷されたといわれています。

レコード初の量産体制

1898年11月6日、エミールは弟ヨーゼフ・ベルリナーとともに、ハノーファーで「ドイツ・グラモフォン社」を設立します。クニー通りの工場で、レコード史上初めての本格的な量産が開始されました。エミールはさらにイギリスにも第二の拠点を築き、「グラモフォン・アンド・タイプライター社」の設立に参画します。イギリスへ進出した明確な理由は定かではありませんが、どうやら兄弟は銀行から十分な融資を受けられなかったようです。いずれにせよ、イギリス法人がドイツ・グラモフォン社の親会社となり、レコード生産はその後も続けられていきました。

なお、ハノーファーのブリュール通り27番地には、かつての住人であるヨーゼフ・ベルリナーを偲ぶ記念プレートが掲げられています。


前編:「ハロー」――最初に録音された言葉(本記事)
後編:伝説的テノール、カルーソーがレコードの勝利を決定づける