ハンブルク空港は110周年を迎えた。その始まりは1911年1月10日、フールスビュッテル村の近くに建設された最初の飛行船格納庫である。その後、ツェッペリン飛行船はたちまちのうちに航空機へと取って代わられていく。
文:アクセル・フランツ
ハンブルクの門前に建つ飛行船格納庫
1911年1月10日火曜日、ハンブルクで商人や政治家たちが集まり、後に激動の発展を遂げることになるプロジェクトの基礎を築いた。彼らが設立したのは「ハンブルガー・ルフトシッフハレン社(Hamburger Luftschiffhallen GmbH)」である。これこそがハンブルク空港の歴史の始まりだ。しかし、海運界の重鎮アルフレート・バリンや実業家エドムント・ジーマースらの関心は、まだ飛行機には向いていなかった。彼らが熱狂していたのは、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵の構想だった。その約1年前の1910年3月6日、飛行船の設計者であり操縦士でもあった伯爵はこのハンザ都市で講演を行い、海運で培ったハンブルクの主導的地位を飛行船の分野にも広げるべきだと訴えた。その呼びかけは見事に実を結び、68万5000ライヒスマルクという創業資金が多くの出資者から集まった。その大部分は、1000ライヒスマルク額面の株式証券によるものである。
定期路線ベルリン便の開設
1919年、民間航空がフールスビュッテルに戻ってきた。2月には、今日のルフトハンザの前身にあたるドイツ航空会社(Deutsche Luftreederei GmbH)が、初の定期航空サービスを開始した。改造された軍用機がベルリン路線に就航したが、乗れるのはわずか5人ほどだった。時速150キロで飛ぶ複葉機では、乗客も操縦士も屋外に座り、飛行帽とゴーグル、マフラー姿で寒風に耐えた。まもなく国内各地に加え、スカンジナビア、イギリス、オランダへ向かう欧州路線も続々と開設され、利用客数は急増した。1923年の5087人から、1924年には1万7350人、1937年には5万7194人に達している。
初のターミナルビル開業
1920年代、空港は当時の交通量に見合う形で繁栄した。この頃はまだ舗装された滑走路はなく、航空機は羊が短く刈り込んだ芝生の上を走った。1929年には、乗客と貨物のための初のターミナルビルがフールスビュッテルに開業し、管理部門もそこに入居。レストランや展望台も併設された。1931年のペンテコステにはフライトイベントが開催され、何百人もの訪問者がフールスビュッテルを訪れた。1935年からは敷地が南西方向に約100ヘクタール拡張されて220ヘクタールとなり、公共交通機関とも結ばれた。ハンブルクから就航する22の目的地の中にはバグダッドも含まれていた。約4050キロの旅は経由地を挟んでほぼ24時間を要し、当時世界最長の定期航空路線だった。その後、再び戦争が民間航空の発展を中断させる。しかしドイツ空軍はフールスビュッテルの施設を巨大なマットや樹木で巧みに偽装したため、第二次世界大戦でも空港はほぼ無傷で生き残った。
「レーズン爆撃機」のためのコンクリート滑走路
1945年5月、イギリス王立空軍が空港を接収し、1946年に定期民間航空として再開した。ハンブルクは国際航空路線網に復帰したのである。1948年には、封鎖されたベルリンへの大空輸作戦「レーズン爆撃機」に使用するため、急遽2260メートルの滑走路がコンクリート舗装された。イギリス軍は1950年10月1日に管理権をドイツ側へ引き渡すまで、フールスビュッテルのホストであり続けた。
民間航空は再び急速な勢いを取り戻す。1950年代には早くもハンブルクからの海外直行便が登場し、ニューヨーク、ナイロビ、香港などが就航地に名を連ねた。1955年にはドイツ・ルフトハンザが新たな一章を開いた。新設された同社は、フールスビュッテル発のフライトで定期運航を開始したのだ。使用されたコンベア340は約50人乗りで、時速450キロで飛行した。同時に、敷地南部には航空機格納庫が建設された。これが今日のルフトハンザ・テクニックの前身である。
ジェット推進がプロペラに取って代わる
1959年、米パンアメリカン航空のボーイング707がハンブルクに着陸し、航空の新時代の幕開けを告げた。ジェットエンジンがプロペラに取って代わったのである。飛行はより速く、より安価になり、路線数も増加していく。やがて航空機は、バカンス旅行においてさえ日常的な交通手段の一部となった。1961年、ハンブルク空港は初めて年間利用者100万人を突破した。2019年には約1300万人に達したが、コロナ禍の2020年には75%近い落ち込みを記録することになる。1929年築の旧ターミナルは急増する需要に対応できず、増改築が繰り返された。貨物エリアには専用の倉庫群が整備され、1960年代末には空港は400万人規模の利用者に対応できる設計となった。
拡張は限界に
航空運航の増加と周辺の住宅密集化に伴い、騒音問題が顕在化した。静かな機体への優遇措置や、周辺住宅への防音窓設置などの対策が講じられたが、フールスビュッテルはさらなる成長にはあまり適していないように思われた。そこでハンブルクとシュレスヴィヒ=ホルシュタイン両州の政治家たちは、カルテンキルヒェンに新空港を建設することで合意する。最初の計画は1969年に発表されたが、住民の抗議活動や財源をめぐる論争がプロジェクトを停滞させ、1983年に正式に断念された。一方、利用者数は増え続け、空港は拡張を迫られながらも物理的にはほとんど拡張できない状況に置かれた。以来、空港は既存の敷地内での成長を余儀なくされている。1993年には新たなターミナル、現在の第2ターミナルが営業を開始した。
新ミレニアムへ向けた大規模改修
ミレニアムを迎える頃には、空港の年間利用者はほぼ1000万人に達し、「ハンブルク空港(Hamburg Airport)」と改名された。ハンザ都市ハンブルクは空港会社に初の民間株主を迎え入れ、2001年には総額約3億5000万ユーロの大規模拡張プログラム「HAM 21」が始動した。1929年築の旧ターミナルは取り壊され、6300平方メートルの新しい第1ターミナルが2005年に完成。外観はガラスとスチールが特徴の近代的なデザインだ。さらに3年後の2008年12月4日には「エアポート・プラザ」が落成した。両ターミナルをつなぐこのプラザは、約40の店舗と多彩な飲食店を備えたショッピングモールとしての顔を持つ。中央保安検査場もここに設けられ、2010年9月からは物議を醸したボディースキャナーの試験運用も行われた。
Sバーンで市街地へ
2008年末には、プラザの地下にSバーン(都市近郊電車)の駅が開業した。長年の議論を経て、空港は中央駅や市中心部への高速アクセスを手に入れたのである。2009年には駐車デッキの増設とホテルの開業をもってHAM 21が完了し、従業員約1万5000人を擁する空港は、年間約1500万人の利用者に対応できる体制を整えた。これによりハンブルク空港は北部首位、全国第5位の座に立った。
しかし、拡張はこれで終わりではない。2016年には、敷地南部の旧駐車場跡地に建設された新航空貨物センターが開業し、年間最大15万トンの貨物処理能力が倍増した。そして空港には新たな名称が与えられた。「ハンブルク空港ヘルムート・シュミット」――元連邦首相にしてハンブルク名誉市民の名を冠したものである。