ヨーロッパの歴史

北海の小島から世界へ――ヘルゴラント鳥類観測所100年の渡り鳥研究の軌跡

ドイツ唯一の洋上島・ヘルゴラント。島の鳥類観測所は戦争で破壊され、1950年代に再建された。世界で2番目に古いこの観測所は、約100年にわたり渡り鳥の謎を追い続けてきた。その波乱に満ちた歴史を辿る。

ヘルゴラント風ツグミのスープ、青菜添えのヤマバト――今日、この島でそうした珍味の調理法を知る人はほとんどいない。しかし19世紀になるまで、赤い岩場に飛来する「羽のある客」たちは、島民の食卓を彩る貴重なごちそうだった。

また、ヤマシギは美食家たちにロースト料理として珍重された。伝説によれば、時には腹の足しの方が魂の救済より優先されたという。ある春の日曜日、島の牧師が心を高揚させる説教をしていたところ、教会にざわめきが走った。「シギの群れがやって来る!」牧師は「デ・スネップが来たぞ! アーメン」と急いで聖書を閉じ、信者たちは網と猟銃を持って飛び出し、日曜のごちそうを確保したのだという。

鳥猟師からアマチュア鳥類学者へ

ヘルゴラント鳥類学の祖ハインリヒ・ゲトケは、狩人から研究者へと転身した人物だ。1837年に島へ居を構えた画家だった彼は、当初、島に集まる鳥の多さを狩人として、またグルメとして楽しんでいた。ところが、撃ち落としたハヤブサの美しさに心を動かされ、鳥をじっくり観察するようになる。1843年に剥製コレクションを始め、4年後には鳥類学の日誌をつけ始めた。彼の初期の記録こそ、今日の科学的データ収集の礎となっている。

独学だったゲトケは専門誌への発表を重ね、1891年には著書『フォーゲルヴァルテ・ヘルゴラント』を出版した。しかし、正式な鳥類学研究施設の設立までには、さらに数十年の時が必要だった。

海洋生物学者が鳥に魅せられた日

1909年、博士号を持つ生物学者フーゴ・ヴァイゴルトが海洋生物の研究のためヘルゴラントを訪れたとき、王立プロイセン生物学研究所でゲトケの剥製コレクションと蔵書を目にした。アマチュア鳥類学者だったゲトケは、1892年、イギリスがこの島をドイツへ譲渡したのに伴い活動を始めた海洋研究所に、これらの宝物を売却していたのである。

鳥好きとして知られたヴァイゴルトはこの学術的コレクションに夢中になり、ついには研究所所長フリードリヒ・ハインケを説き伏せて、1910年4月1日付で「鳥類学業務の遂行」を任されることに成功した。こうして「ヘルゴラント鳥類観測所」が誕生した。当時東プロイセンのクローニシュ・スピットにあったロッシッテン鳥類観測所に次ぐ、世界で2番目に古い観測所である。

標識調査の先駆者となったヴァイゴルト

これまでに島で標識を付けられた鳥は80万羽を超える。

ヴァイゴルトは渡り鳥研究の体系化への道を切り開いた。ロッシッテンの同僚たちと同じく、科学的な鳥の標識調査(リング付け)を開始したのだ。この方法は単純でありながら極めて巧妙だ。標識を付けた鳥の発見地から、渡りの経路を推定できる。体重や年齢、死因といった情報も併せて記録される。ヘルゴラントで最初に登録されたのは、リング番号「1111」のウタツグミだった。

研究対象をうまく捕まえるため、ヴァイゴルトは次にスコップを手に取った。木々のないヘルゴラント・オーバーラント(上部台地)に「捕獲園」を作ったのである。雨のたびに水たまりができることから島民に「ザップクーレ」と呼ばれていた窪地に緑化を施し、茂みの間で網を使って鳥を捕獲した。しかしこの方法は人にも鳥にも大きな負担となるため、1920年以降、彼は後に世界的に有名となる「ヘルゴラント・トラップ(漏斗型罠)」を考案した。トンネル状の網が次第に狭くなり、最終的に箱へと導かれる仕組みで、捕まえた鳥は布袋に入れられて標識係の小屋へ運ばれる。

疎開と空襲――戦火に見舞われた観測所

過去100年で、ヘルゴラントでの鳥類研究が途絶えたのはわずかに2回ある。第一次世界大戦では島民が疎開し、亜鉛箱に詰められたゲトケの鳥類コレクションは本土搬送の際に大きな損傷を受けた。第二次世界大戦では事態はさらに深刻になった。1944年、イギリス空軍(RAF)が北海博物館を破壊し、ゲトケ・コレクションの一部も失われた。そして1945年4月18日には、約千機のイギリス爆撃機がわずか2時間で島を破壊し尽くした。幸い、観測所は最重要資料を岩盤深くの2箇所に分散保管しており、かけがえのない記録は難を逃れた。

戦後:鳥類研究所(IfV)への再出発

ヘルゴラント・トラップは、鳥への負担を抑えた優しい捕獲を可能にする。

終戦直後、ヴァイゴルトの後継者ルドルフ・ドロストはゲッティンゲン大学の厩舎建物に仮拠点を設けた。そして島から、120万羽分の標識個体情報と4万件の再発見記録を含む、かけがえのない標識アーカイブを無事に回収したのである。

敗戦国となったドイツの廃墟の中で、旧プロイセン鳥類観測所は再編を余儀なくされた。1946年以降は独立した「鳥類研究所(Institut für Vogelforschung、IfV)」としてニーダーザクセン州文化省の管轄下に入る。1947年にはヴィルヘルムスハーフェンに新居を見つけ、本部は現在もそこにある。研究者たちは、かつてのリュスタージール要塞跡の緑豊かな敷地に、実験用の罠や飼育舎を整備した。鳥類コレクションのうち無事だった標本もヴィルヘルムスハーフェンに移され、「ゲトケ・キャビネット」として国立公園センター内のワッデン海ハウスで見ることができる。

ヘルゴラント島での新たな始まり

しかし、ヘルゴラント島でも研究を続けるべきだと考えられた。1952年にイギリスは島を返還し、翌年春、IfVはヴォルフガング・ユングファーを派遣して「ヘルゴラント島嶼観測所」を立ち上げた。それはゼロからの再建だった。まず取り掛かったのが、空襲で荒らされた捕獲園の復旧である。

1956年4月1日にゴットフリート・ヴァウクが島嶼観測所の責任者に就任した頃、島はまだ「巨大な土の塊」のような有様だったという。しかし翌年にはザップクーレのそばに新しい観測所棟が完成し、はるかに良い作業環境のもとでの新時代が幕を開けた。

北海の守り手たち

島嶼観測所を擁するIfVの活動は、もはや渡り鳥研究にとどまらない。鳥は、レジャー活動による撹乱から有害物質、輸送、生息地の破壊に至るまで、数え切れないほどの人間の影響を受けている。1920年代にすでにフーゴ・ヴァイゴルトが海鳥を生物指標(バイオインジケーター)とすることの重要性を指摘していたように、「ヘルゴラントの捕鳥人」ゴットフリート・ヴァウクは、政治家や経済界の代表者に繰り返し訴え続けた。

気さくな人柄の科学者だったヴァウクは32年間にわたり島嶼観測所を率い、環境保護が社会全体の関心事になるずっと前から海洋汚染について警告を発していた。油まみれになって命を落とす海鳥の悲惨な現状や、漁師が「置き忘れた」漂流する「ゴーストネット」の実態を糾弾したのだ。この漁網には毎年何十万羽もの鳥のほか、クジラ、イルカ、アザラシが絡まり、苦しみながら死んでいく。

約900万羽の鳥に標識を

ヴィルヘルムスハーフェンにあるIfVは、世界中で研究プロジェクトを展開している。

現在、環境研究プロジェクトはIfVにとってますます重要な使命となっている。科学者たちは、風力発電施設が渡り鳥に与える影響を調査したり、鳥の行動の変化から気候変動の手がかりを読み解いたりしている。

ゼーゼンにあるマックス・プランク鳥類学研究所とともに、鳥類研究所「フォーゲルヴァルテ・ヘルゴラント」は今や、世界最大級の基礎鳥類学研究拠点の一つに数えられる。当時のIfV所長フランツ・バイアラインによれば、ヘルゴラントにおける渡り鳥の長期データは唯一無二だという。「これほど長期間にわたり、これほど標準化された方法で渡り鳥の研究が行われている場所は、他にどこにもありません」。

この100年間でIfVは585種・約900万羽の鳥に標識を付け、うち80万羽以上はヘルゴラント島での実績である。北極海からナミビア、アイスランドからシベリア西部までの広大な範囲で、307種・約25万羽の標識鳥が再発見され、IfVへ報告された。

ちなみに、フーゴ・ヴァイゴルトが初めての再発見を記録したのは、わずか2日後のことだった。相手はあのウタツグミ「1111」――なんと射殺されて見つかったのである。