ヨーロッパの歴史

女教皇ヨハンナの伝説と「Duos habet et bene pendentes」というデマ――中世教皇庁の暗黒時代

現代では出来事が秒単位で記録され、同じ一つの現実に対してさえ複数の「版本」が存在するのだから、数百年前の出来事については言うまでもない。資料が乏しく、混乱していたり信憑性が疑わしかったりすれば、真実と神話・伝説を切り分けることは極めて難しい。歴史上ただ一人「女性の教皇」が存在したとされる女教皇ヨハンナ(パピサ・フアナ)の伝説と、その周囲に生まれた数々のデマも、まさにそうした例である。

馬上で出産した女教皇

この伝説には複数のバージョンがあり、年代設定にも幅があるが、いずれも9世紀にヨハンナが聖ペトロの座(教皇位)に就いたとしている。当初は偽装がうまくいっていたが、すべてが台無しになったのは、ある日、馬で移動中のこと。突然、破水してしまったのだ。なんと、教皇が出産したのである!人々の驚きは怒りへと変わり、そして怒りは……石打ちへと変わった。

女教皇ヨハンナの伝説と「Duos habet et bene pendentes」というデマ――中世教皇庁の暗黒時代

あくまで都市伝説にすぎないこの物語には、当時の教会の堕落と腐敗への風刺――聖ペトロの座に「女大司祭」すら就きうるほど教会が堕落していたという批判――を読み取る論者もいる。そして、この伝説から一つのデマが生まれた。「同じ事態が二度と起きないよう、教会はすべての教皇が通過しなければならない試験を設けた」というものである。

「Duos habet et bene pendentes」の検査

Duos habet et bene pendentes(二つあって、よく垂れている)

伝えられるところによれば、教皇に任命された者は穴の開いた椅子に着座しなければならなかった。男性であればそこから陰部が垂れ下がり、枢機卿が目視で男であることを確認する――別のバージョンでは、手で触れて確かめたともいう――そして「Duos habet et bene pendentes(二つあって、よく垂れている)」と叫んだとされるのだ。

確かに、その「穴の開いた椅子」は実在する。しかし、この物語とは何の関係もない。それはsedia stercoraria(セディア・ステルコラリア=排泄の椅子)であり、教皇が着座して……新聞でも読むための椅子だったのである。

こうしたデマや先の伝説の流布には、美術作品も一役買った。若い修道士が側面の穴から手を入れ、教皇インノケンティウス10世の性器の有無を触診する場面を描いた作品や、女教皇ヨハンナの出産を永遠に留めた絵画などがその代表である。

女教皇ヨハンナの伝説と「Duos habet et bene pendentes」というデマ――中世教皇庁の暗黒時代

実在した「暗黒時代」サエクルム・オブスクルム

女教皇ヨハンナの伝説と「Duos habet et bene pendentes」というデマ――中世教皇庁の暗黒時代

一方で、まったく別の話として、904年のセルギウス3世即位から964年のヨハネス12世の死までの期間は、サエクルム・オブスクルム(暗黒時代)、あるいは「ポルノクラシー(娼婦政治)」として知られている。これをその著『教会年代記』に記録したのが、16世紀の枢機卿にして歴史家のチェーザレ・バロニオである。この時代、教皇たちはテオドラとマロツィアという母娘の強い影響下に置かれていた。

テオドラの時代

レオ5世の死後、スポレート家と、ローマの元老院議員にしてマギステル・ミリトゥム(軍務総監)であるテオフィラクトの支援により、904年にセルギウス3世が新教皇に選出された。その見返りとしてテオフィラクトはヴェスタリウス(財務を掌握する役職)に任じられ、のちには執政(コンスル)にもなった。彼の妻テオドラはローマのセナトリックス(元老院夫人)として新教皇を支持した……といっても、その支持はベッドの上で行われた。彼女は教皇の最も重要な決定に、寝所で関与していたのである。15歳になった娘マロツィアもまた母の後を追って同じ教皇の寝所に伺候し、ついには息子ヨハネスまでもうけた。

セルギウス3世の死後、テオドラは続く三人の教皇を擁立した。アナスタシウス3世(911~913年)、ランド(在位6か月で死去)、そして914年のヨハネス10世である。その二年後にテオドラが死去すると、主導権はマロツィアの手に移った。

マロツィアとアルベリーコ2世

女教皇ヨハンナの伝説と「Duos habet et bene pendentes」というデマ――中世教皇庁の暗黒時代

マロツィアには、最初の夫スポレート家のアルベリーコ1世との間にもう一人の息子アルベリーコ2世がいた。ヨハネス10世との対立が早くも表面化すると、彼女は再婚相手であるトスカーナ侯グイードの力を借りて教皇を投獄し、ヨハネス10世は獄中で不審な死を遂げた。母と同じように、マロツィアも次の三人の教皇を選んだ。レオ6世(928年に7か月間)、ステファヌス7世(928~931年)、そしてヨハネス11世(931~935年)――最後の人物は彼女自身の息子である。絶対的な権力を握った彼女は、セナトリックス・パトリキア・ロマノルム(ローマ人の貴族婦人)の称号で呼ばれるようになった。

二人目の夫の死後、マロツィアはさらなる権力拡大のためイタリア王ウーゴとの再婚を画策したが、ここで問題が生じた。息子アルベリーコ2世が、この縁組に反対する勢力を率いたのである。

アルベリーコ2世は「ローマ人の君主・元老院議員」の称号を名乗り、ローマを支配した。母が王ウーゴと婚約したその当日、彼は母を逮捕・監禁し、936年に母が死去するまで拘束し続けた。息子は母の役割を引き継いで教皇擁立を続け、955年には自らの息子――すなわちマロツィアの孫、テオドラのひ孫にあたる――ヨハネス12世を擁立した。彼は964年まで聖ペトロの座に君臨することになる。

同時代人が残した証言

これらの年月について、クレモナの司教リウトプラントは次のように書き残している。

彼らは黄金の馬具をつけた馬で狩りを楽しみ、狩りの終わりには踊り子たちを交えて豪華な饗宴を催した。そして恥知らずな売女たちを連れ、絹のシーツと金の刺繍を施した掛け布のある寝台へと消えていった。当時のローマの司教たちは皆妻帯しており、その妻たちは聖なる祭服を解いて絹の衣を作っていた。