マラスピーナ遠征とは
「マラスピーナ遠征」の名を冠していますが、この遠征を実際に率いたのは航海士アレッサンドロ・マラスピーナとホセ・ブスタマンテの二人です。遠征の主な目的は、エルカノに倣った世界一周と、ジェームズ・クックのような網羅的な科学調査(動植物、鉱山、地図作成など)の実施でした。1789年当時、スペイン王領はヨーロッパからアメリカ大陸、フィリピンにまで及んでいたことを想起すれば、この計画のスケールの大きさがわかります。
計画の承認と船団の編成
イタリア出身の航海士マラスピーナは、政治的・科学的な側面を併せ持つこの計画をスペイン国王カルロス3世に提出しました。海軍大臣アントニオ・バルデスの後押しもあり、計画は1788年10月14日に正式に承認されます。
国王はカディスに2隻のコルベット艦の建造を命じました。艦名は「アトレビーダ号(Atrevida)」と「デスクビエルタ号(Descubierta)」で、いずれもクックの船にちなんだものです。指揮はマラスピーナとブスタマンテが執りました。乗員は船員204名のほか、医師2名、随行司祭2名、地図作成者1名、航海士4名、製図士6名、博物学者3名という、科学遠征にふさわしい顔ぶれが揃いました。1789年7月30日、船団は5年に及ぶ航海のためにカディスを出航したのです。
5年に及ぶ壮大な航海の足跡
船団はまずモンテビデオへ向かい、ブエノスアイレスを経てパタゴニアへ。ホーン岬を回ってアメリカ大陸沿岸に沿って北上しました。狙いは太平洋と大西洋をつなぐ北側の航路(北西航路)の探索です。アラスカに到達して沿岸の測図を行いましたが、航路を発見することはできませんでした。
その後、グアムに立ち寄りながら太平洋を横断し、マリアナ諸島に沿って進み、1792年3月にフィリピンへ到着します。マニラでは、島々の海岸線を調査するため2隻は一時別行動をとりました。再び合流した船団はニュージーランドとオーストラリアへ向かい、こちらでも測量を実施しています。ここで船団は、アフリカへ向かって喜望峰を回るか、アメリカ大陸経由で帰国するかを検討しました。理由は定かではありませんが、最終的には太平洋を渡ってペルーへ戻り、そこから帰国するルートを選択。1794年3月、船団は無事カディスへ帰港しました。
遠征は大成功でした。未知の海域の測図、科学実験の実施、現地の動植物の研究、そして王領各地の状況調査——掲げられた目的はことごとく達成されたのです。
英雄の凱旋と突然の失脚
帰国した一行は英雄として迎えられました。遠征の成果は報告書『政治科学世界一周航海誌』としてまとめられ、新国王カルロス4世に提出されます。しかし、この国(シエスタに次ぐ第二の国技が「嫉妬」だと言われる国)では、すべてが順風満帆というわけにはいきませんでした。
無能な国王の寵臣にして王冠の実力者だったマヌエル・ゴドイは、マラスピーナの名声を嫉み、その失脚を画策します。ゴドイはマラスピーナを「革命家」「陰謀家」と告発し、彼はなんと10年間も投獄されてしまいました。出獄後(これはナポレオンの要請によるものでした)、皇帝ナポレオンは彼を自らの陣営に引き入れようとしましたが、マラスピーナはこれを辞退し、故郷イタリアへ隠退。1810年にこの世を去りました。一方のブスタマンテはモンテビデオ総督を務めるなど、比較的穏やかな晩年を送っています。
忘れ去られかけた偉大な記録
ゴドイの圧力にもかかわらず、報告書は破壊を免れ、1885年にペドロ・デ・ノボ・イ・コルソンによって出版されました。そこには海図や鉱山調査報告、500種以上の動物と14,000種の植物に関する研究、民族画や風景画などが詳細に記録されています。忘却の淵に追いやられながらも後世に残された、史上最も重要な科学遠征の一つなのです。
出典:The Spanish Gesta – José Javier Esparza
写真:Wikipedia