刑務所に入るほど稼げた?
「刑務所に入れば入るほど収入が増える」――現代では荒唐無稽に聞こえる話ですが、19世紀末から20世紀初頭のスペインでは、これが新聞社と編集者の間で実際に交わされた契約条項でした。その背景には、報道の自由をめぐる法制度の変遷と、「影の編集長(名義上の編集長)」と呼ばれる独特な仕組みの存在がありました。
ブルボン朝の復活と二大政党制の誕生
アルフォンソ12世のもとでスペインにブルボン朝が復位すると、プラクセデス・マテオ・サガスタは1880年に自由党を創設します。この党は、アントニオ・カノバス・デル・カスティージョ率いる保守党と並び、政権が両党の間で平和裏に交替する「ターンノ・パシフィコ(穏健な政権交代)」と呼ばれる二大政党制を形成しました。この体制こそ、19世紀終盤から20世紀前半にかけてのスペイン復古期を特徴づけるものとなりました。

アレハンドロ・レルー
1883年「出版警察法」と報道の自由化
1881年にサガスタが政権に就くと、報道を統制していた1879年1月の出版法は廃止され、代わって1883年に「出版警察法」が制定されました。この新しい法律は自由主義的で、表現の自由を基本原理としていました。主な変更点は以下の通りです。
- 新しい刊行物の許認可要件が大幅に簡素化された
- 裁判所や官憲に対する報道機関の代表権が、創業者や所有者から編集長へと移された
- 印刷物を通じた犯罪は刑法典の原則に従い通常裁判所が裁くことになり、印刷犯罪専門の検察官や特別裁判所は廃止された
「影の編集長(ディレクター・デ・パハ)」の登場
こうした新しい法的枠組みの中で生まれたのが、「名義上の編集長」=「影の編集長」という存在です。紙面を実際に仕切る本当の編集長とは別に、虚構の、いわば「藁人形」にすぎない編集長を形式的に登録しておき、訴訟や告発が起こった際には、その人物が新聞の代表として刑事責任を肩代わりするのです。
この仕組みを使えば、本人が危険を冒さずに新聞の実権を握ることができます。アレハンドロ・レルーはまさにこの方法によって、紙面の実質的な運営権を掌握することになりました。
『ラ・ヴェウ・デ・カタルーニャ』の驚きの契約条件
バルセロナで1899年1月1日から1937年1月8日まで発行された『ラ・ヴェウ・デ・カタルーニャ』(La Veu de Catalunya/カタルーニャの声)にも、もちろん影の編集長がいました。それが編集者のコルマ氏です。彼との契約書には、次のような報酬が明記されていました。
- 編集者として:月200ペセタ
- 名義上(架空)の編集長として:月200ペセタ
- 名義編集長の職務により投獄された場合:拘置1日につき25ペセタの手当
つまり、牢獄に入る日数が多いほど収入が増える仕組みだったのです。当時のジャーナリストにとって「刑務所入り」は必ずしもキャリアの終焉ではなく、生活を支える貴重な収入源であり、獄中で供される食事ごと含めて、一種の「待遇」だったのかもしれません。
参考文献
- Paul Aubert『Les élites et la presse en Espagne et en Amérique latine』
- Mª Fca. Olmedo『Spanish historical anecdotario(スペイン歴史逸話集)』