フランスを支配したコルシカ人の伝記を読んだことがある人なら、誰もが一度はこの一見冗長な問いを心に浮かべたことがあるでしょう。若き将軍ボナパルトと皇帝ナポレオン1世の間には、一目でわかるほどの違いがあるからです。では、ボナパルトはいつ「ナポレオン」になったのでしょうか?なぜ彼は市民の一人、あるいはprimus inter pares(同輩中の首席)であることをやめ、ギリシャ・ローマ風の神にさえ近い存在である皇帝へと変貌したのか。革命の理想主義を絶対主義へと変えたものは何だったのか。権力か、名声か、それとも周囲の偶像化か。「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」という言葉は、本当に正しいのだろうか。

公式な転換点――1804年12月2日の戴冠式
この人物が公に行った転換、すなわち「市民ボナパルト」の立場を捨て、単なる「ナポレオン」へと変わった公式の瞬間は、1804年12月2日にパリのノートルダム大聖堂で行われた戴冠式です。この儀式は、統領政府の5年間を通じて彼が着々と築き上げてきた権力の上昇が、決定的なものになったことを象徴していました。
しかし、これはあくまで国内および国際的な世論に対する表面的な変化にすぎません。真の変化は、別の時点ですでに起こっていました。200年以上前に亡くなった人物の思想に正確な日付を与えるのは不可能ですが、ナポレオンの人生における2つの重要な日付に注目すれば、おおよその見当をつけることは十分可能です。
人生を分けた2つの日付
第一に、1799年11月9日。軍と多くの政治家の支持を受け、ナポレオンはクーデター(ブリュメール18日のクーデター)を起こし、フランス共和国の第一統領の座に就きました。彼は複雑な革命政治の傍観者から、その中心で駒を動かす主役へと躍り出たのです。
第二に、1805年12月2日。戴冠式からちょうど1年後、現在のチェコにある小さな町アウステルリッツ近郊で、ナポレオン率いる大陸軍(グランダルメ)は、第3次対仏大同盟の連合軍に対して信じられないほどの大勝利を収めました。
ナポレオンが頂点に立ったこの2つの出来事を踏まえれば、私たちが探している答えはこの期間のどこかにあるはずです。しかし、正確にはいつなのでしょうか?
変化の源泉――「野望」という性格
具体的な時期を特定する前に、ナポレオンの精神性に起きたこの「急激な変化」の原因を考えてみる必要があります。実はその原因は、ブリエンヌ陸軍士官学校に入学した頃から彼の中に宿っており、その後のキャリア全体を通じて彼を支え続けたものでもありました。
権力についてはすでに触れてきましたが、より正確に言えば、皇帝の人格を特徴づけていたのは権力そのものではなく、権力への渇望、すなわち野望でした。トゥーロンでも、アウステルリッツでも、そして数え切れないほどの戦場で彼を勝利に導いたのはこの野望であり、エルバ島からの脱出と帰還さえも後押ししたのがこの野望でした。しかしその一方で、モスクワ、ライプツィヒ、ワーテルローで彼を破滅させ、セントヘレナ島での悲劇的な最期へと突き落としたのもまた、同じ野望だったのです。
真の転機――アンギャン公爵の処刑
ここまでを踏まえると、1799年から1803年にかけて、ナポレオンはフランスの指導者でありながら、依然として自分を「革命の子」であり、その理想の熱心な信奉者だと考えていました。こうした認識が揺らぎ始めたのは、警察大臣フーシェが1803年末に帝政への移行を進言した頃からです。とはいえ、強固な信念を持つ青年ボナパルトにとって、それはまだ決定的な契機ではありませんでした。
そう考えると、1799年のクーデターが転機だったわけではなく、1804年12月の戴冠式でもないことがわかります。なぜなら戴冠式の時点で、変化はすでに完了していたからです。その瞬間、そこにいたのは「自らの手で帝冠を戴くのに十分なほど強力だ」と信じる人物だったのですから。では、1804年前半に何が起こり、フランスの内外における権力の均衡を塗り替え、ナポレオンをして「自分は無敵だ」と信じ込ませたのでしょうか。
答えは1804年3月21日にあります。この日、ナポレオン政権への反対勢力が一掃されました。ブルボン家に最も近い血縁者であり、ナポレオンに対する陰謀の首謀者の可能性が最も高い人物と目されていたアンギャン公爵が誘拐され、即決裁判の末に処刑されたのです。当時のナポレオンが直接の関与をしていたかどうかは議論がありますが、「小さなコルシカ人」は初めて神のように振る舞い、自らの一存で一人の人間の命を奪ったのです。

「アンギャン公爵の逮捕」/ アルフォンス・ラローズ画
結論――孤独な権力者が皇帝となった瞬間
こう断言することができます。アンギャン公爵の死後、ナポレオンには「彼を恐れない敵」はいなくなり、彼は権力の座にただ独り占居することになりました。そして、フランスを頂点へ導けるのは自分だけだと思うようになったのです。これが、生来の野心家であった彼の性格と相まって、一国ならぬ帝国の重みをすべて彼の肩に背負わせることになりました。
演説や訓辞の中では「革命の子」であることを掲げ続けながらも、この事件こそがコルシカ人の内面を根本から変え、革命的理想を熱烈に信奉する理想主義的な青年将校から、ヨーロッパと世界の覇者となることだけを目標とする啓蒙専制君主へと変えた、真の転換点だったのです。
協力:Francesc Marí Company