1937年12月15日は、「ギリシャ人」という言葉が政治的カテゴリーと化し、ソ連国内のギリシャ系住民に対する大量逮捕が始まった日とされている。弾圧の対象となったのは、政治的・社会的地位にかかわらず、すべての男性ギリシャ人だった。共産党の忠実な党員からなるギリシャ人指導層の全員が逮捕されたのである。
逮捕されたのは、現地のギリシャ人――マリウポリ出身者、ポントス人、古くからのギリシャ移民の子孫たち――だけではない。ギリシャから亡命してきた政治難民、すなわちギリシャ共産党(KKE)の党員やその支持者たちも同様だった。彼らは1928年に始まった「イドニモス(信頼)」と呼ばれる政治弾圧を逃れ、ヨアニス・メタクサス独裁政権下で激化する迫害から身を守るためにソ連へ渡った人々であった。
国家保安機関(NKVD)長官ニコライ・エジョフが署名した命令指令第50215号により、ソ連のギリシャ系少数民族は「容疑者」とみなされることになった。この発想のもとでは、民族的出自がそのまま政治犯罪と同一視された。保安当局が逮捕したギリシャ系市民は1万5000人に上ると推定されている。
オスマン帝国領域から来て、小アジア悲劇(カタストロフィー)を機にソ連に定着した少数民族の相当部分は、わずか数年前に青年トルコ民族主義者たちの標的となったのに続き、再び同様の運命に見舞われることになった。民族集団への帰属による集団責任、そして文化的アイデンティティの罪責化というこの方針は、特定の少数集団に対するスターリン主義政策の重要な軸となっていく。
少数民族への集団弾圧を画した一つの命令
雲行きが怪しくなり始めたのは1937年の秋だった。イワン・ジュハは著書『グレチェスカヤ・オペラツィヤ(ギリシャ作戦)』の中で、少数民族に対する最初の公式な措置として、共産党中央委員会組織局の会議で採択された決定を挙げている。それによれば、各民族学校(フィンランド語、ドイツ語、英語、ギリシャ語などの学校)の存在はソビエト社会主義にとって「有害」であるとされ、NKVDの職員に対して必要な措置を講じることが求められた。続いて、コーカサス、クラスノダール地方(南ロシア)、クリミア、アゾフ地方(マリウポリ=ドネツク)で250校のギリシャ人学校が閉鎖された。
ギリシャ系少数民族を標的とする政策は、命令指令第50215号によって成文化される。エジョフが「ソ連内務人民委員部(NKVD)委員、国家保安総委員」の肩書きで署名したこの命令書には、次のように記されていた。
「ドイツおよび日本の利益のためのスパイ活動や破壊工作活動と並んで、ギリシャ人のスパイ活動もまた、反ソ的志向を持つ市民に依拠しながら、ソ連国内のギリシャ人住民の間で活発な反ソ活動およびナショナリズム活動を展開している。ソ連領内におけるギリシャ人スパイの活動を阻止する目的で、私は次のように命令する。
12月15日、全共和国・全地域において同時に、スパイ活動、遊撃隊活動、ナショナリズム的反ソ活動の容疑のあるギリシャ人をすべて逮捕せよ。
以下のカテゴリーに属するギリシャ人(ギリシャ国民およびソ連市民)をすべて逮捕する:
A)NKVDの名簿に登録され、監視対象となっている者。
B)元大商人、闇商人、密輸業者。
C)活発なナショナリズム活動を展開しているギリシャ人。とりわけ元クラーク(富農)およびデクラーク化を免れた者。
D)ギリシャからの政治難民、およびどの国から来たかにかかわらず、不法にソ連へ入国したギリシャ人すべて。」
生存者の証言――ヤニス・カラマニディスの場合
ソ連におけるギリシャ人社会、とりわけスターリン主義弾圧の時代という未知の歴史を研究しようとする中で、私は当時の暴力をあらゆる形で経験した人々に出会った。1980年代の終わり、アスプロピルゴスのアノ・フーサにある粗末な無認可の住居で、ヤニス・カラマニディスと知り合ったのだ。
カラマニディスは、黒海の両岸で起こった天地を覆うような大変動のすべてを経験した人物だった。小アジア方面におけるジェノサイドとトルコ民族主義の支配、ソ連への亡命、戦間期の政治的変動。彼は新経済政策(NEP)の時代を生き抜き、「ヘレニック作戦」開始当初のスターリン主義の犠牲者となった。カラマニディスは、小アジアのポントス地方コトリオの裕福な家系の出である。
青年トルコ党の政策により、彼は17歳にして山に駆け上がり、反乱者にならざるを得なかった。小アジア悲劇の後、5年間のゲリラ活動を経てソ連のアドレルへ逃れたが、1937年にそこで逮捕された。彼は自身の逮捕についてこう語っている。
「俺が捕まったのは1937年12月18日だった。クラスノダールの刑務所に送られた。タンジニカの橋を爆破したことに署名しろと言われた。そんな場所がどこにあるのかも知らなかったんだ…そこでさんざん殴られた…夜中の12時に奴らが来て、取り調べに連れて行かれる。
殴られながら、橋を壊したことに署名しろと言われた。裸にされて、立ちっぱなしの部屋に入れられた。周りの壁には釘がびっしり打たれていて、どこにも触れられなかった。冷水を浴びせられ続けた。体はむくんでしまったよ。署名させるために外へ連れ出されたが、俺は署名しなかった。奴らは手で文面を隠して署名しろという。何と書いてあるのか読んでから署名すると答えた。
読ませようともせず、悪態をついて署名を迫る。ここに俺がいる理由を知るために読ませろと言ったんだ。すると棍棒が飛んできた。ひどい目にあったよ。一人が殴って、もう一人へ放り投げる。そいつも同じことをする。倒れるまでずっとだ」
最終的に、有罪判決や処刑命令にすべて署名していたエジョフとヴィシンスキーのコンビ(1938年9月以降は署名権限が現地の三人委員会「トロイカ」に移譲された)によって、彼は10年の刑を宣告された。カラマニディスは極東の各地――カムチャツカ、サハリン、ウラジオストク――を転々とした末、ついにマガダンのコルィマ強制収容所にたどり着いた。
収容所での生活について、彼はこう語る。「収容所はギリシャ人だらけだった。あらゆる国籍の者がいた。ロシア人、グルジア人、ポーランド人、イギリス人。1万8000人が一緒にそこへ送られた。生き残ったのは300人だ。他は飢えと寒さで死んだ。おがくずを煮て食べた。死体の山が積まれていた。皮膚は革のように変色していた。
長さ50メートル、幅15メートルの穴を掘った。一つ掘るのに4、5日かかった。地面は凍てついている。素手では掘れないんだ。少し掘っては石油を注いで火をつける。氷が溶けたらまた掘り続ける。これを繰り返して、3メートルの深さまで達する。死体はトラクターで穴に押し込まれた。コルィマのあの平原には何千もの集団墓地があった…作業場には20〜30人が送り込まれた。周囲には兵士。歩けなくなった者は殴られた。
しかし最悪だったのは犬だ。刑法58条で収監された者には何の権利もなかった。死のうが殺されようが、誰にも責任を問われることはなかった。刑務所では私語ひとつ交わさなかった。政治犯には言葉がないんだ。囚人服のあちこちに番号が付いていた。俺は665番だった。解放の日までそれを背負っていた。刑事犯の囚人の方がよほど自由だったよ」
「2万5000人のうち、残ったのは600人」
調査の旅の途中で、私はネア・スミルニでもパブロス・ケルデメリディスに出会った。スターリン主義の暴力を経験し、ヴォルクタ地方の強制収容所に12年半も抑留された、もう一人のディアスポラのギリシャ人である。ケルデメリディスはポントスのトラペズント(トレビゾンド)郊外に生まれ、黒海南岸で新トルコ民族主義が行ったジェノサイドを逃れてロシア領クリミアへ亡命した。1937年12月15日、アルプカ(古代ギリシャ語名「アロペキ・フォレアス」が転訛した地名)で逮捕された。彼は「写真家協同組合」の会長だった。
逮捕の様子を、彼は次のように語る。「NKVDに、理由も分からないまま逮捕された。後に尋問が始まり、ヤルタからセヴァストーポリへ連れて行かれた。尋問では棒で殴られながら、この人やあの人について何を知っているかと問われた。尋問は18か月間続いた…俺が署名した供述書には、ある組織に属し、ソビエト政府の転覆を目論んでいたと書かれていた」。
この自白に基づき、ケルデメリディスは三人委員会(トロイカ)によって重労働刑を宣告された。さまざまな強制収容所を転々とした後、ヴォルクタ地方の収容所へ移送された。移送の様子と収容所の生活については、こう述べている。「1939年、2万5000人(あらゆる国籍の人々を含む)が90両の貨車に詰め込まれ、シベリアへ送られた。そこには森が広がっていた。
降ろされて、自分たちの足で進み、平原にたどり着いた。『ここでお前たちは暮らすんだ』と言われた。森の中、家もなく、何もない場所で。雪の中でだ。こうして6か月で、2万5000人は600人になった…そこで働いた。材木を切り、積み上げた。
周りは自動小銃を持った兵士ばかり。もちろん、切り出した材木は全部そこで腐った。奴らは俺たちを絶滅させるつもりだったんだ。ほとんどの者が死んだ。そこにどんな人々がいたのか、誰にも永遠に分かることはないだろう…4人ずつ組んで労働に行った。周りには犬と自動小銃。右に一歩、左に一歩動いただけで、警告なしに撃たれた」。興味深い続きは元記事をご参照ください。