
1917年10月にゴリツィア北方で勃発したカポレットの戦いは、極めて困難な山岳地帯において、より強大な敵を打ち破った、軍事史上屈指の勝利として記録されている。当時、イタリア第2軍はゴリツィア南方の広大な正面を担当していた。
この軍は、イタリア軍にとって成功裏に終わった第11次イゾンツォの戦いで栄冠を勝ち取った精鋭だった。9個軍団・24個師団を擁し、60kmの正面を守る、イタリア軍最強の軍であった。
根拠のない楽観か
司令官カペッロ将軍も、イタリア軍最高司令官カドルナ将軍も、将来を楽観視する十分な理由を持っていた。対峙するのは当初、オーストリア第2軍と、同じくオーストリアの第10軍であった。
その後、オーストリア第10軍はさらに西へ後退し、新編成の独新編成の独墺混成第14軍がその空白を埋めた。しかしこの再配置後も、イタリア軍単独でほぼ対等な戦力を保っていた。歩兵24個師団に対し、オーストリア18個師団、ドイツ7個師団である。
イタリア軍の問題は、その重心が東方、すなわちゴリツィアと下イゾンツォ地区に置かれていたことだった。第2軍の9個軍団のうち6個がそこに展開し、残る3個軍団が約30kmに及ぶアルプス方面の正面防衛を担っていた。

とはいえ、イタリア軍司令部の判断自体は無理がなかったものだった。8個師団があれば、敵の攻勢に利用できないと見られた約30kmの山岳地帯を容易に防御できると考えられたのである。実際、この観察は一見誤っていないように思われた。
険しい地形そのものが障害となり、さらにイタリア軍より低い位置に陣取る攻撃側には遮蔽が少なく、大規模攻勢に必要な兵力・資材の集中は不可能と考えられたのだ。
イタリア兵たち。
こうして参謀本部の間に、この正面への安心感が芽生えた。しかし戦争において「安全な陣地」など存在しない。まさにこの思考を読んだ墺独両軍は、敵が攻撃を予期しなかった場所、すなわちアルプス方面の30kmに満たない正面から攻撃することを決意した。
奇襲の計画
攻撃計画は、山岳戦に精通した二人の将軍、ドイツのクラフト将軍とオーストリアのクラウス中将の協力による産物だった。計画された攻撃は敵を奇襲するものであり、真秋というこの時期、アルプス方面からの攻勢はあり得ないと考えられていただけに、その効果は絶大だった。
イタリア軍はすでに一部の師団を第一線から引き抜いており、この正面を守るのはわずか4個師団、1個師団あたり平均7.5kmの担当正面となっていた。さらに第4・第27・第7軍団所属の4個師団が、第一線から数km後方に予備として控えていた。
攻撃前に前進した独軍の突撃部隊
墺独両軍の計画はシンプルだった。攻撃地域で5対1の数的優勢と全体的な質的優位を握るクラフトとクラウスは、上イゾンツォ渓谷に沿って攻撃し、カポレットを攻略してまずイタリア第2軍の左翼を崩壊させることを目指した。
さらに黒山系の西翼を形成するストールとコロヴラトの高地を奪取できれば、イタリア第2軍全体を分断・包囲し、ポー川背後への全面退却を強いることは時間の問題となるはずだった。

実はイタリア軍には、迫る打撃に関する警告が届いていた。だがそれは軽視された。情報に反応したカドルナは、脅威にさらされる正面へ歩兵2個連隊を送り込んだだけで満足したのである。
崩壊
運命の10月24日、夜明けとともに墺独軍の砲撃が始まると、イタリア軍は幕僚も兵士も最初の不快な驚きに直面した。同日朝、クラウス率いるオーストリア軍が先制攻撃を仕掛け、イタリア軍の陣地を突破してストール高地をほぼ占領した。
中央正面では、不屈で恐れを知らぬ将校として名を馳せていた当時の中尉エルヴィン・ロンメルが率いる山岳部隊がコロヴラトまで突進し、カポレットへ向かうシレジア第12師団の道を開いた。カポレットは同日中に陥落した。
イタリア軍司令部が事態を把握し始めたのは、24日の午後になってからだった。第一線の4個師団のうち3個との連絡を失い、残る第50師団が壊滅したことを知ったのである。
イタリア軍捕虜たち。
カドルナは危機に瀕した正面へ5個師団の即時派遣を命じ、さらに第二梯団として4個師団を後続させた。しかし増援部隊は敗走する味方と遭遇して混ざり合い、たちまちパニックが蔓延した。
これに拍車をかけたのが、縦深突破によってあらゆる場所に出現した独墺軍の存在だった。イタリア兵たちは、自分たちの正面が完全に崩壊したという印象を受けたのである。

だが実際にはそうではなかった。墺独軍の突撃部隊は地形を巧みに利用し、山稜を越えて移動しながら谷間のイタリア軍陣地を次々と蹂躙していった。これは、パパゴス将軍率いるギリシャ軍が1940〜41年に北エピロスで行った進撃にも似た戦法だった。
パニックに陥ったイタリア軍は無秩序に潰走した。攻撃開始からわずか28時間での崩壊は、第一次世界大戦の常識では前例のない出来事だった。彼らがようやく足を止めたのは、英仏軍の増援を受けてピアヴェ川の線に到達した後、11月7日のことであった。
わずか3日間で、イタリア軍は2年間の戦闘で獲得した領土をすべて失い、30万人を超える将兵と3,000門の火砲を喪失したのである。