背景:連合軍のギリシャ派遣と戦線崩壊
1941年3月、W部隊はオーストラリア第6歩兵師団、ニュージーランド第2歩兵師団、そして第1機甲旅団を率いてギリシャに上陸した。しかし、その後の展開は周知の通りである。戦線は崩壊し、イギリス軍は追撃してくるドイツ軍から逃れるため、南ギリシャへの撤退を余儀なくされた。
カラマタ――最後の避難港
カラマタは、その最後の撤退拠点の一つだった。イギリス軍の撤収は4月24日に始まり、26日までに将兵8,000人以上、さらにイギリス空軍(RAF)要員やオーストラリア兵が脱出に成功していた。一方、増強大隊および第24・第28マオリ大隊の一部ニュージーランド兵は取り残され、翌日の夜に出発する予定で待機していた。ところが4月28日の夕刻、ドイツ第5装甲師団の先頭部隊がカラマタに到着したのである。
4月28日深夜、ドイツ軍が市街に突入
撤退を待つニュージーランド部隊は、町の東側に広がるオリーブ園に野営していた。1941年4月28日から29日にかけての夜、ドイツ軍の装甲部隊がカラマタ市街に突入。砲と迫撃砲で増強されたドイツ軍は、港で乗船する船を待つ連合軍部隊に即座に攻撃を仕掛けた。状況は極めて危機的だった。
当事者の証言:エドマンド・シャーピン
王立輸送軍団のエドマンド・シャーピンは、当時をこう語っている。「私は町へ車で向かうよう命じられた。奇妙な風体の男たちが20人ほど車に乗り込んだ。身長2メートルはあろうかという巨漢のオーストラリア兵は、ボーイズ対戦車銃の銃身の下に針金で銃剣を括り付け、まるで普通の小銭のように構えて発射していた……」。トミーガンやブレン軽機関銃で武装したニュージーランド兵やキングス・ロイヤル・ライフル隊の兵士もいたが、弾薬はごくわずかしか残っていなかった。
「準備を整えて桟橋へ向かった。到着すると車を降り、動くものすべてに発砲した。数分ですべてが終わった。ただ一人、88ミリ砲の車輪の陰にドイツ軍の大尉が潜んでいた。オーストラリア兵のボーイズ対戦車銃の一撃で、その将校は二度とヒトラーに奉仕することはなくなった……」。生き残ったドイツ兵たちは、両手を挙げて降伏した。
ハイントン軍曹の奮戦
「戦闘は続いたが、我々の弾薬は底をつき、疲労と渇きが兵士たちを苛んだ」。遮蔽物に伏せるよう命令が出されたが、ハイントン軍曹は「誰が俺と一緒に来る?」と叫び、最も近い位置にいたドイツ兵に突っ込んでいった。ドイツ兵は彼を狙って撃ったが外れ、ハイントンは手榴弾2発で彼らを吹き飛ばした。さらに少数の兵士を従えて、銃剣による突撃を敢行したのである。
ドイツ軍は砲を放棄して民家の中へ退却した。ハイントンは扉を蹴破って家になだれ込み、ドイツ兵を次々と制圧した。2軒目の家でも同じように戦った。しかし、そこへドイツ軍の増援が到着する。ハイントンは腹部を深く撃たれて捕虜となり、1945年まで収容所に抑留されることになった。彼の活躍に対しては、後にヴィクトリア十字章が授与された。
英雄の顛末と、徒労に終わった夜
興味深いことに、ハイントンの受章を知らされたドイツ側の捕虜収容所所長は、敵兵でありながら彼のために名誉の式典を開いたという。アメリカ軍によって解放された彼は、アメリカ軍の軍服をまとってドイツ国内での戦闘にも加わったと伝えられる。1945年4月12日にイギリスへ帰還し、1997年にこの世を去った。
しかしそれほどの勇気も、結局は無駄に終わってしまった。その夜、王立海軍が脱出させることができたのは、わずか332名の負傷者だけだった。そしてドイツ軍が「砲撃で町を更地にする」と脅したため、ニュージーランド部隊はついに降伏を余儀なくされたのである。