ヨーロッパの歴史

リミニの戦い――イタリア戦線で敵地を制圧したギリシャ兵たちの勇猛な報復

リミニの戦い――イタリア戦線で敵地を制圧したギリシャ兵たちの勇猛な報復

第二次世界大戦末期のイタリア戦線。強固な防衛線「ゴシックライン」を巡る激戦の中で、亡命中のギリシャが編成した一個旅団が、枢軸軍を相手に歴史に残る戦果を挙げました。それが「リミニの戦い」として知られる、ギリシャ第3山岳旅団の戦いです。

ギリシャ第3山岳旅団の結成

ギリシャ第3山岳旅団は、1944年5月31日、レバノンのインサリエにおいて編成され、山岳戦術の訓練を受けました。総兵力は3,377名に及び、3個歩兵大隊、第3野戦砲兵連隊、工兵中隊、輸送部隊、野戦外科部門、補充中隊、軍事班および管理支援部門などで構成されていました。旅団長には歩兵大佐スラシヴロス・ツァカロトスが就任しています。

イタリア派遣と「ゴシックライン」攻防

1944年8月11日、旅団は定期船「ルイス号」によりハイファ港からイタリアのタラント港へ移送されました。その後、鉄道と車両でスポレートを経由してカトリーナ地方へ進み、北アペニン山脈の防衛線――いわゆる「ゴシックライン」を突破する連合軍作戦に参戦しました。

イタリアにおける連合軍阻止計画は、早くも1943年7月にはヒトラー自身によって策定されていました。この計画は「ゴシックライン」以南の全地域を放棄し、南東からの連合軍の接近路に防御態勢を敷くというものでした。全長約350キロに及ぶ「ゴシックライン」の要塞化工事は、1943年9月に着手されています。

コリアーノへの砲撃――初陣と最初の犠牲

1944年9月3日、旅団はカナダ第5師団の指揮下に入り、前線から8キロのサンタ・マリア・ピエトラフィッタ地域への移動を命じられました。同日、旅団砲兵連隊はメタウロ川流域に移動し、カナダ第1軍団の砲兵部隊と合流します。9月5日、旅団砲兵はリッチョーネ西方コリアーノの敵ーノの敵陣地に対する砲撃に参加し、ついに初陣を飾りました。

旅団の戦域投入と砲撃戦への参加は、周囲から大きな熱意をもって迎えられました。ギリシャ砲兵は以後2日間にわたり戦闘を継続し、コリアーノの敵目標に対して合計3,648発の榴弾を発射。この戦いで砲兵3名が負傷し、うち1名が命を落とし、旅団は最初の犠牲者を出すこととなりました。

リミニ攻略戦の開始

防御側の陣地は灌木と耕地に覆われ、攻撃方向に対して垂直に河川や小渓といった水障が走っていました。陣地は多様な塹壕網、砲兵陣地、地雷原によって強固に組織されており、9日深夜から13日にかけては敵航空機の攻撃や曲射砲火、双方の斥候活動が交錯する激しい戦況が展開されました。

9月14日のリミニ攻撃は、旅団が所属するカナダ第1師団によって主導されました。同師団はマラーノ川南岸に集結し、渡河後に北西方向へ攻勢をかけ、西側から包囲するようにリミニへ向かうことが狙いでした。一方のドイツ軍は、第1落下傘師団およびトルクメン師団の一部をもって、川の北側および北西の高地を死守する構えでした。

夜間攻撃の計画

ギリシャ旅団は夜間攻撃により敵陣地を奪取するよう命じられました。攻撃正面はヴィア・デル・フィウメとヴィア16号線の間に設定され、最終目標はリミニ市の完全制圧でした。左翼はカナダ第3旅団が、右翼はカナダ第41竜騎兵連隊がそれぞれ掩護することになりました。

旅団の作戦計画では、時間差をつけた攻撃でまず左側面の敵を排除して側背安全を確保し、3方向から順次強力な砲兵支援を受けることとされていました。すなわち、アンドレアス・ルーテラキス少佐率いる第3大隊が午前0時30分からバタラ〜カーサ・マルトーニ方面へ、ヨアニス・カラヴィアス少佐の第1大隊が午前2時からカーサ・モナルティーニ方面へ、ソフォクレス・ツァネティス少佐の第2大隊が午前3時45分からカーサ・ノディチェッリ方面へと前進しました。

ドイツ軍の頑強な抵抗にもかかわらず、9月14日の夕方までにギリシャ各部隊は目標を達成。翌15日、旅団は勢いを衰えさせず前進を続け、カザレッキオ〜リミニ飛行場南西角〜マラーノ川橋梁の線を確保しました。続く2日間でドイツ軍の抵抗を打ち破り、飛行場を占領します。9月19日にはカナダ軍と共にロデッラ川を渡ってリミニへ進軍し、翌20日に市攻略の総攻撃を開始しました。

市街戦と三大隊の分担

各大隊は機動性を活かしてリミニを攻略することになりました。第2大隊が鉄道線から海岸までの市東部を担当し、第3大隊が市中心部を、第1大隊が西端から迂回する役割でした。その後、3個大隊すべてが市北郊のマレッキア川に架かる橋梁群を占領・確保する計画でした。

9月21日午前6時45分、第2大隊は市中心部のアウザ川に到達。ドイツ軍が退却掩護のために残置した抵抗拠点を短期間で無力化し、午前7時15分に市内へ突入すると、1個中隊をもって市庁舎を確保し、そこに軍旗を掲げました。同時に第3大隊も目標地域へ前進し、これを占領しています。

リミニ市長による無条件降伏

午前7時30分、リミニ市長が第3大隊第2中隊長アポストラキス・ミハイル大尉のもとへ赴き、ギリシャ軍への市の引き渡し準備が整っていることを告げ、公式議定書が作成されました。

「サンタ・マリア・デ・ラ・コロンネッリにて、千九百四十四年(1944年)九月二十一日木曜日、午前七時三十分。署名者委員会――議長ボルトニ・ゴベリオ、反ファシスト党員ボルトニ・ロモロ・デル・プラート・バンツィオほか――は、前進するギリシャ軍、すなわち第3ギリシャ山岳旅団第3大隊第2中隊長アポストラキス・ミハイル大尉に対し、リミニ市を無条件に引き渡す。秩序の維持と住民の保護はギリシャ軍に委ねられる。」

この議定書はギリシャ語、イタリア語、英語の3カ国語で作成され、署名のうえ第3大隊長によって受理されました。こうして1944年9月21日午前9時、リミニはギリシャ軍の完全な支配下に置かれたのです。市内で執り行われた式典では第2大隊の軍旗が称えられ、旅団には「リミニ旅団」という名誉称号が贈られました。

「リミニ旅団」の名誉と犠牲

同年9月27日から10月16日まで、旅団はニュージーランド第2旅団の新指揮下で攻勢作戦を成功裏に継続し、その後イタリアを離脱。蒸気船「アルカンタラ号」で、ようやく自由を取り戻した祖国ギリシャへ凱旋帰還しました。

イタリアでの作戦参加からリミニ攻略までの第3ギリシャ山岳旅団の損害は、将校6名・下士官兵72名が戦死、将校19名・下士官兵169名が負傷というものでした。これは総兵力の約10%、最前線で戦った歩兵大隊だけに限れば約20%に相当します。損害の大きさこそが、払われた努力と将兵の資質、そして勝利への揺るぎない信念を物語っています。

リミニの戦い――イタリア戦線で敵地を制圧したギリシャ兵たちの勇猛な報復

連合軍指揮官たちの賛辞

ニュージーランド第2師団長バーナード・フレイバーグ卿は、1944年10月20日付の特別日令で次のように述べています。

「第3ギリシャ山岳旅団との別れを告げるのは、誠に悲しみに堪えない。イタリアにおいて勇敢かつ見事に戦い、君たちは正当な誇りとなる名声を勝ち取った。第3ギリシャ山岳旅団が私の指揮下に入ったとき、私はそれを栄誉として受け止めた。リミニとルビコンにおける君たちの武勇は、君たちの軍の栄えある歴史に新たな一頁を書き加えた。そして『自由とは幸福なり』と信じてきた偉大なる国民の伝統にふさわしい存在であることを証明してみせた。君たちは今、イタリアを去り、祖国へ帰ろうとしている。ギリシャ軍のみならず、我々が深く永遠の敬意を抱くギリシャ国民に対しても、心からの祈りを捧げる。第2ニュージーランド師団の全将兵より、幸運と神のご加護を。」

また、連合国軍最高司令官アレグザンダー元帥は、報告書「1943年9月3日から1944年12月12日までのイタリアにおける連合国軍」の中で、旅団の活躍についてこう記しています。

「9月20日、絶望的ともいうべき苦闘の末、サン・フォルトゥナートが攻略され、夜にはギリシャ軍がカナダ第1師団の指揮下でリミニに入城した。私は喜んだ。この成功が、暗黒の時代に我々の傍らで戦い続けた唯一の同盟国であるあの英雄的国の運命を実にタイムリーに照らしたからであり、アルバニアの山々で獲得した栄光に、イタリアでの新たな勝利が加わったからである。」

リミニの戦いにおいてギリシャ兵たちは、堅固な要塞と優れた装備を擁する敵に立ち向かい、英雄的行為と自己犠牲によってのみ勝利をつかみ取りました。リミニの攻略は連合軍のルビコン川への前進を容易にし、イタリア半島の解放に決定的な貢献を果たしたのです。

リミニの戦い――イタリア戦線で敵地を制圧したギリシャ兵たちの勇猛な報復

出典:army.gr