ギリシャを蹂躙したケルト人、小アジアへ
ガリア人(ケルト人)はギリシャに侵入し、恐怖と死を撒き散らしました。しかし彼らは最終的に撃退され、小アジアへと逃れることになります。ヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)を渡った野蛮なガリア人たちは、行く手のすべてを略奪し始めました。後に「ガラティア人」と呼ばれる彼らはとどまることを知らず、都市や村を次々と破壊していきました。
この脅威を食い止めるべく立ち上がったのが、セレウコス朝の王アンティオコス1世です。セレウコス朝帝国の創始者セレウコス1世ニカトルの息子にあたる人物でした。
寡兵で挑んだアンティオコス1世
アンティオコスは父に従って戦場を渡り歩いた経験を持つ歴戦の武将でした。しかし、ガリア人が侵攻してきた当時、彼はプトレマイオス朝エジプトやカッパドキアのアリアラテスとも対立しており、大軍をガリア人にぶつける余裕はありませんでした。
それでも彼は少数の軍をもって出陣します。正確な兵力は伝わっていませんが、2万人以下と推定され、その半分はペルタスト(軽装歩兵)でした。長槍サリッサを装備したサリッソフォロイは4,000に満たなかったといいます。しかし、アンティオコスには16頭の戦象という強力な切り札がありました。
綿密な布陣と隠された戦象
王はファランクス(密集歩兵方陣)を中央に置き、左右両翼にペルタスト部隊を配置しました。自らは重装騎兵を率いて右翼の先頭に立ち、その前面には槍兵・投槍兵・投石兵の部隊を展開。左翼には軽騎兵を配し、軽装弓兵がこれを支援しました。
さらにロドス出身の将軍テオドトスの助けを借りて、アンティオコスは戦象を敵から隠すことに成功します。戦象は3個部隊に分けられ、8頭の部隊はファランクス直前の中央に、残る4頭ずつの2部隊は軽歩兵の援護を受けて両翼端に配置され、ガラティア騎兵を怯ませる役割を担いました。
圧倒的な敵の戦力
一方、ガリア人の戦力は膨大でした。古代の資料によれば、騎兵だけでも2万人を数えたといいます。さらに80台の鎌戦車を保有し、これをセレウコス朝のファランクスを崩壊させるために中央へ投入する一方、通常の戦車160台を予備として温存していました。騎兵が2万人を擁するなら、歩兵はその倍、あるいは資料によっては5倍に達したとも考えられています。
こうして両軍は対峙し、決戦は紀元前275年に勃発しました。
戦象が決めた勝負
アンティオコスはガラティア人の攻撃を待ち構え、彼らは期待を裏切りませんでした。神々に祈りを捧げると、彼らは凄まじい鬨の声とともに突撃を開始します。鎌戦車は恐るべき刃を閃かせながら砂塵を巻き上げ、ガラティア騎兵もまた、はるかに少数のセレウコス朝騎兵を殲滅せんと前進しました。
ところが、突然、戦象が姿を現したのです。ガリア人の馬はパニックに陥りました。制御を失った鎌戦車は停止し、反転してガラティア歩兵の方へ向かいます。同様にガラティア騎兵の馬たちも恐怖に駆られて味方の歩兵の中へ突っ込み、両者は動くことのできない巨大な塊と化してしまいました。
完全なる勝利と「救済者」の称号
まもなくガリア軍は組織的な戦力として存在しなくなりました。身動きできない人間の塊となった彼らは、暴走する鎌戦車の刃によって文字通り両断されていきます。ガリアの歩兵たちは胴体を真っ二つにされ、手足が宙を舞いました。さらに数千人が騎兵や、逃げ惑うパニック状態の味方に踏み潰されたのです。
アンティオコスの勝利は完全なものでした。彼の小規模な軍は敵の大群を徹底的に追撃し、数千人を討ち取りました。ガリア人は、かつて略奪を受けた地域の住民たちからも容赦なく追い詰められていきます。
この大勝利により、アンティオコスは臣民から「ソーテール(救済者)」と称えられました。そして勝利をもたらした戦象を讃えるため、彼はガリアの戦士を踏みつける象を描いた貨幣やメダルを鋳造させたのです。