ナチス・ドイツの強制収容所において、囚人に識別番号のタトゥー(入墨)を施す慣行は、すべての収容所で行われていたわけではありません。体系的にタトゥーを実施したのは、実質的にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のみでした。
アウシュヴィッツにおけるタトゥーの始まり
アウシュヴィッツでは当初、囚人の識別は衣服に縫い付けた番号布によって行われていました。しかし1941年秋、死亡率の高さから遺体の身元確認が困難になったことを受け、まずソ連軍捕虜に対して胸部への番号刺青が導入されました。その後、刺青の位置は左前腕へと変更されました。
タトゥーの対象となった囚人
1942年春以降、ユダヤ人が大量に移送されるようになると、入墨は広く適用されるようになりました。対象となったのは以下のようなグループです。
- ユダヤ人囚人
- ロマ(シンティ・ロマ)囚人
- ソ連軍捕虜
- 長期間収容されたポーランド人政治犯を含む登録囚人
重要な点として、アウシュヴィッツに正式に登録されたポーランド人囚人もまた、タトゥーの対象となりました。つまり、入墨は特定の民族集団だけに限られたものではなく、同収容所に登録され、一定期間収容された囚人全般に施されたのです。
アウシュヴィッツ以外の収容所との違い
ダッハウやブーヘンヴァルトなど、他のナチス強制収容所では、タトゥーの代わりに布製の番号札を衣服に縫い付ける方法が主流でした。そのため、「強制収容所の囚人=全員がタトゥーを入れられていた」という認識は正確ではありません。前腕の番号入墨という印象的な光景は、アウシュヴィッツ特有の慣行だったといえます。
なお、ガス室へ直接送られた囚人など、正式な収容手続きを経なかった人々には番号もタトゥーも付与されませんでした。この事実は、ホロコースト犠牲者の多くが記録すら残さず命を奪われたことを物語っています。