第二次世界大戦前夜、イギリスがナチス・ドイツの要求を受け入れた「宥和政策(appeasement)」は、歴史的には批判されることが多い外交姿勢です。しかし、その裏側では、イギリスが戦争に備えるための貴重な時間を確保していたという見方も存在します。本記事では、宥和政策がイギリスに与えた「時間」の意味を、再軍備や防衛体制の整備といった観点から解説します。
宥和政策とは何だったのか
宥和政策とは、1930年代後半、当時のネヴィル・チェンバレン首相率いるイギリスが、ヒトラーの領土拡張の要求を譲歩によってなだめ、戦争を回避しようとした外交路線です。代表的な例が1938年のミュンヘン会談で、イギリスとフランスはチェコスロバキアのズデーテン地方をドイツへ割譲することを認めました。帰国したチェンバレン首相は「われらの時代の平和」を宣言しましたが、その翌年、ドイツはポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が勃発することになります。
「時間を買う」形となった再軍備
ヒトラーの要求に一時的に応じたことで、イギリスは戦火が自国に及ぶまでの猶予期間を手に入れました。この間、イギリスは次のような軍備増強を進めることができました。
- 航空戦力の拡充:後にバトル・オブ・ブリテンの主役となるスピットファイアやハリケーンなど、新型戦闘機の量産を加速させました。
- レーダー網の整備:「ホーム・チェーン」と呼ばれる早期警戒レーダー網を国土沿いに展開し、敵機の接近を即座に察知できる体制を築きました。
- 防空体制の構築:高射砲部隊の増強や、民間防空組織の訓練・編成を進めました。
バトル・オブ・ブリテンにおける決定的な意味
こうして積み上げられた準備は、1940年のバトル・オブ・ブリテンで結実します。ドイツ空軍による猛攻撃に対し、イギリス空軍(RAF)はレーダー情報を活用した効率的な迎撃態勢によってこれを退けました。その結果、ドイツ軍の本土上陸作戦(アシカ作戦)はついに実行されず、イギリスは本土への侵略を免れたのです。
もし宥和政策による猶予期間がなかったなら、航空戦力も防空網も不十分なまま開戦することになり、事態はさらに深刻なものになっていた可能性があります。
宥和政策評価の是非
もちろん、「宥和政策は意図的な時間稼ぎだった」という見方は、やや単純化しすぎているという指摘もあります。当時のイギリスでは第一次世界大戦の悲惨な記憶から厭戦ムードが世論を支配しており、経済的にも大規模な再軍備は容易ではありませんでした。また、チェンバレン政権が本当に開戦を予期していたのかどうかについては、今日でも歴史家の間で議論が続いています。
それでも、「宥和政策がイギリスに準備の時間を与えた」という視点は、この政策を理解する上で欠かせない要素の一つです。結果として戦争を防ぐことはできなかったものの、その猶予期間があったからこそ、イギリスは最悪のシナリオ――本土侵攻――を回避できたのだと言えるでしょう。