1938年から1939年にかけて、ナチス・ドイツは一連の侵略行為と拡張政策を次々と実行しました。これらの出来事は宥和外交の失敗を象徴するとともに、最終的に1939年9月のポーランド侵攻、すなわち第二次世界大戦のヨーロッパでの勃発へとつながっていきました。以下、主要な出来事を時系列で解説します。
1. アンシュルス(オーストリア併合)――1938年3月12日〜13日
ドイツ軍はオーストリアへ無血進軍を行い、同国を併合しました。この「アンシュルス」はヴェルサイユ条約に明確に違反するものであり、ヒトラー政権下におけるドイツ初の大規模な領土獲得となりました。国際社会が実質的な制裁を行わなかったことは、その後のヒトラーの冒険主義を助長する結果となります。
2. ズデーテン危機とミュンヘン会談――1938年9月〜10月
ドイツは、チェコスロバキア西部に位置し住民の多くがドイツ語を話すズデーテン地方の割譲を要求しました。この危機を受けて開催されたミュンヘン会談において、イギリス・フランス・イタリアは戦争回避のため、ズデーテン地方のドイツによる併合を受け入れます。いわゆる「宥和政策」です。
しかし、この妥協は平和をもたらさず、宥和外交の失敗として歴史に刻まれました。ヒトラーの拡張的な野心はむしろ一層強まり、さらなる侵略への自信を深めることとなったのです。
3. 水晶の夜(クリスタルナハト)――1938年11月9日〜10日
ドイツおよびオーストリア全土で反ユダヤ主義的な暴力が組織的に発生しました。ユダヤ人の商店や住宅、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)が略奪・放火され、無数のガラスが砕け散ったことから「水晶の夜」と呼ばれます。
この事件は、ナチス政権によるユダヤ人迫害が国家ぐるみの組織的暴力へと大幅にエスカレートした重大な転換点であり、後のホロコーストへつながる前兆となりました。
4. チェコスロバキア侵攻――1939年3月15日〜16日
ドイツはミュンヘン協定を完全に無視してチェコスロバキアの残りの地域へ侵攻・占領しました。ズデーテン地方の割譲だけでは満足しなかったヒトラーの領土的野心が、もはや限界を持たないことを世界に示した出来事です。
この裏切り行為により、イギリスとフランスは対独姿勢を転換し、ポーランドに対する独立保証を打ち出すなど、欧州列強の間に警戒感と危機感が急速に広まりました。
5. 独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)――1939年8月23日
ドイツは突如、イデオロギー的に真っ向から対立するはずのソビエト連邦と不可侵条約を締結しました。この条約には、ポーランドおよび東欧を独ソ両国の勢力圏として分割する内容が含まれていたとされます。
ソ連の介入を恐れる必要がなくなったヒトラーは、ポーランド侵攻への「ゴーサイン」を得たことになります。そして1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、イギリスとフランスが宣戦布告を行ったことで、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が正式に幕を開けたのです。
まとめ
アンシュルスから独ソ不可侵条約までの一連の流れは、国際社会の対応の遅れと宥和政策の限界を浮き彫りにしました。各段階で断固とした対応が取られていたなら、大戦の勃発は回避できた可能性もあります。この歴史的教訓は、今日の国際政治においても依然として重要な意味を持っています。