「自発的な身を引き」ではなく「強いられた決断」
ジュゼッペ・ガリバルディが南イタリアで征服した地域をヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の統治に委ねたのは、自ら進んで身を引いたからではありません。実際には、彼は強力な外交的圧力にさらされ、征服地を手放さざるを得なかったのです。
英仏が恐れたもの――共和主義の波及
背景には、イギリスとフランスの強い懸念がありました。1848年のフランス二月革命以降、ヨーロッパ各地で共和主義の思想が広がることを列強は極度に警戒していました。共和主義者として知られたガリバルディが南イタリアに独自の共和制政権を樹立すれば、この流れに拍車がかかり、ヨーロッパ全体の政治的秩序が不安定化すると見られていたのです。
ヴェネツィアをめぐる対オーストリア戦争の回避
もう一つの重大な要因が、オーストリアとの戦争への懸念です。当時ヴェネツィアはオーストリア帝国の支配下にありました。もしガリバルディがさらに北上してローマやヴェネツィアを目指せば、オーストリアとの全面衝突は避けられない状況になりかねません。大国間の戦争を何としても避けたいイギリスとフランスは、この事態を強く危惧し、サルデーニャ王国側に対してガリバルディの動きを抑えるよう働きかけました。
統一事業を優先したガリバルディの選択
こうした国際情勢の中、ガリバルディは1860年の「千人隊(赤シャツ隊)」遠征でシチリアとナポリを解放した後、征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上しました。これは単なる撤退ではなく、「まず統一されたイタリアを実現する」という大義を最優先した結果でもあります。しかし、その決断の背後には、共和主義の拡大と対オーストリア開戦を恐れる英仏両国による強烈な外交圧力があったという点は、歴史的事実として押さえておくべきでしょう。