ヨーロッパの歴史

ソ連はなぜポーランドの半分を併合したのか?独ソ不可侵条約と東部占領の真相

1939年9月、ソ連はポーランドの国土の半分以上を併合しました。これは、ソ連とナチス・ドイツとの間で締結された独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく行動でした。ポーランド侵攻後、数千人に及ぶポーランド市民が処刑され、あるいは投獄されることとなりました。

独ソ不可侵条約と秘密議定書

1939年8月23日、ソ連の外務人民委員モロトフとナチス・ドイツの外相リッベントロップは、モスクワで不可侵条約に調印しました。注目すべきは、この条約に公表されなかった「秘密議定書」が添付されていた点です。そこでは東欧を両国の勢力圏に分割することが取り決められ、ポーランドについては西部をドイツが、東部をソ連が支配することで事実上の合意が成立していました。

1939年9月17日、ソ連軍の東部侵攻

ナチス・ドイツが9月1日にポーランドへ侵攻すると、ソ連は同年9月17日、今度は東側の国境から大規模な赤軍部隊を投入し、ポーランドに侵入しました。スターリン政権は「ポーランド国家はもはや存在せず、ウクライナ人やベラルーシ人の住民を保護しなければならない」という名目で侵攻を正当化しました。しかし、その真の目的は、秘密議定書に基づく領土の獲得にほかなりませんでした。

併合された領土の規模

ソ連が併合したのは、通称「クレシヴィ(東部国境地帯)」と呼ばれる約20万平方キロメートルの広大な地域で、人口はおよそ1300万人に達しました。現在の西ウクライナおよび西ベラルーシに相当するこの地域は、それぞれウクライナ・ソビエト社会主義共和国とベロルーシ・ソビエト社会主義共和国に編入されました。

住民への弾圧と強制移送

占領後、ソ連当局はポーランド人エリート層を標的とした大規模な弾圧を展開しました。秘密警察NKVDによる大量の逮捕と投獄が行われ、将校や警官、聖職者、知識人らが収容所へ送られました。とりわけ有名なのが1940年春の「カティンの森事件」であり、約22,000人にのぼるポーランド将校・知識人が処刑されました。

さらに、推計で数十万人から100万人以上のポーランド市民が、シベリアやカザフスタンなどの奥地へ強制移送され、過酷な労働と飢え、寒さの中で多くの命が失われました。

その後の歴史への影響

第二次世界大戦の終結後も、ソ連が占領した東部領土はソ連に留め置かれ、代わりにポーランドの国境全体が西方へ移動させられました。冷戦期を通じてこの問題はタブー視されてきましたが、1989年の体制転換以降、ようやく歴史的な真実が公に認められるようになりました。1939年の併合は、単なる軍事的な出来事にとどまらず、東欧の民族構成と国境線を根本から変える転換点となったのです。