第二次世界大戦のヨーロッパ戦線というと、私たちは無意識にドイツ軍やイタリア軍がイギリス軍、アメリカ軍、ソ連軍と戦う姿を思い浮かべる。視野を広げれば、フランス、オランダ、バルカン諸国、北欧の兵士たちも登場する。しかし、ドイツ国防軍がルクセンブルクの兵士と交戦した場面を思い浮かべる人はほとんどいないだろう。にもかかわらず、この小国では衝突が少なくなく、なかでも最も有名なのがヴィアンデン城での戦闘なのである。
ヴィアンデンとその城の歴史
ヴィアンデンは現在、住民わずか2,000人余りの小さな町だ。ウール川の谷に位置し、北東部のドイツ国境にほど近い。町はガロ・ローマ時代のカステッルム(砦)に起源を持ち、中世には錠前細工、樽製造、織物など様々な分野の職人たちの中心地として栄えた。ぶどう栽培や養豚も盛んで、後者はかなりの規模の皮革業(なめし業)も生み出した。
11世紀から14世紀にかけて、ヴィアンデン伯はこの地に城を築いた。しかしその後、地震とそれに続く火災で城は大きく損傷し、当主たち――のちのオラニエ=ナッサウ家の先祖にあたる家系――はオランダへ移ってしまい、建物は放置されることになった。
1820年、地元の商人が城を買い取ったが、彼は扉や格天井、家具といった内容物だけでなく石まで売り払い、城は哀れな廃墟と化した。修復が始まったのは30年後のことだったが、完全なものではなかった。礼拝堂は比較的良好な状態で残り、その他の部分も居住可能な程度に改修されていたため、1871年には作家ヴィクトル・ユゴーがここに滞在している。
1890年、ルクセンブルク大公アドルフ(ナッサウ=ヴァイルブルク家)はより大規模な再建を命じ、工事は第一次世界大戦の勃発まで続いた。完成間近となったところで中断され、そのまま未完のまま残された。そして1939年、次の世界大戦が幕を開けたのである。
占領とレジスタンス運動
1940年、ルクセンブルクはドイツに占領・併合された。陸軍の半数はベルギー軍、イギリス軍、外国人部隊に身を投じるため国外へ脱出し、民間人にも亡命の波が及んだ。国内には親ナチの「民族ドイツ人運動(Volksdeutsche Bewegung)」のような協力組織も存在したが、翌年にはルクセンブルク・レジスタンスが誕生した。
レジスタンスは「ルクセンブルク赤獅子(Lëtzebuerger Rode Léiw)」、「PL-Men(地下活動班)」、「ルクセンブルク愛国同盟(Lëtzebuerger Patriote Liga)」など、複数の地下組織を形成した。彼らの活動の中心は、ドイツ軍に徴集されるのを防ぐために若者を匿うことであったが、反ナチ宣伝ビラの配布、政治難民の連合国領への移送、ゼネストの呼びかけ、そして装備が手に入った際(それは稀だったが)には破壊工作の実施なども行った。とはいえ、共産主義系、自由主義系、カトリック系など思想背景の異なる複数のグループに分かれ、連携が十分でなかったため、ドイツ側にとって決定的な脅威となるには至らなかった。
解放と国民民兵の結成
しかし1944年秋、状況は一変した。連合軍がヨーロッパ大陸を破竹の勢いで進撃し、国防軍は本国へ退却しつつあった。ルクセンブルク大公国は米軍によって大部分が解放され、敵の支配下に残るのは北東部のいくつかの町だけとなった。これは、1ヶ月後に現実となる反攻への懸念を抱かせる状況でもあった。
こうした中、レジスタンスのメンバーはゲリラ的・非正規的な性格を脱ぎ捨て、義務兵役制による国民民兵を結成した。連合軍は彼らに軍服、武器、弾薬を供給した。民兵の主な任務は独国境の監視と敵部隊集結の早期警戒であり、その点でヴィアンデンは絶好の地点だった。特にその城は要塞であるだけでなく、標高394〜560メートルの丘の上に建ち、ドイツ領内を見渡すことができたのだ。
最初の交戦
11月15日、民兵たちは監視にとどまらなかった。ウィーセンとベッテルの町の間で小規模なドイツ軍パトロールを発見すると攻撃を仕掛け、5名を殺害したのである。11人のドイツ兵相手の小競り合いで、ルクセンブルク側に犠牲者は出なかったが、ドイツ軍司令部は城が自軍の動きを見透かすことを理解し、奪回を決意した。
作戦に投入されたのは武装親衛隊(Waffen-SS)の一隊だった。武装SSはナチ党の軍事組織であり、ドイツ人だけでなく、「アーリア人種」基準を満たす限り被占領地域出身者なども受け入れていた。この地域ではエーリヒ・ブランデンベルガー将軍率いる第7軍が展開しており、約250名の小部隊が作戦に割り当てられた。
36対250――城をめぐる攻防
これに対してルクセンブルク側にいたのは、わずか30名余りの民兵だった。米軍は抵抗のための装備は残していったが増援は送らず(ただし、はぐれた米兵5名とベルギー人通訳1名が合流した)、民間人は避難させられ、彼らは城に籠城した。指揮を執ったのは、社会民主主義系のルクセンブルク社会主義労働者党(LSAP)員で、「ルクセンブルク人民軍団(Lëtzebuerger Vollekslegio'n)」のメンバーでもあるヴィクトル・アベンス(Victor Abens)である。
11月19日日曜日の朝、戦闘の刻が訪れた。武装SSがヴィアンデンの町に侵入し、城への攻撃を開始。擲弾発射器で城壁の突破を試みた。数的優位にあったにもかかわらず、防衛側は遮蔽物の背後から射撃して彼らを近づけさせず、突破には長い時間を要した。
ようやく城壁の一部を爆破することに成功すると、6人の兵士がそこから侵入し門を開いて仲間を迎え入れた。しかし城内には多くの建造物や家屋が残っており、民兵たちはそこから抵抗を続け、攻撃側は一軒ずつ制圧しながら進むことを強いられた。戦闘の結果、ドイツ側は37名を失ったのに対し、防衛側の戦死者は1名のみ(重傷3名、軽傷3名、さらに自宅で手榴弾の爆発により死亡した民間人1名)。おそらくこの損害がドイツ軍指揮官(氏名不詳)の判断を鈍らせたのか、あるいは単に反攻準備中の主力部隊への合流命令が下っていたのか――ともあれ、ルクセンブルク民兵は陣地を守り抜いたのである。
バルジの戦いへ
もちろん、この勝利で終わりではなかった。1ヶ月後の12月16日、国防軍と空軍は「ラインの守り作戦(Unternehmen Wacht am Rhein)」――愛国的讃歌の題名を採った、恐るべき反攻――を発動し、連合軍を奇襲した。主戦場はベルギーのアルデンヌの森だったため「バルジの戦い」と呼ばれるが(英語ではBattle of the Bulge、ドイツ語ではArdennenoffensiveまたはRundstedt-Offensive)、その南翼はルクセンブルクで戦われた。連合軍は厳冬の中、増援と装備を急送して対応せざるを得なくなり、最終的に攻勢を食い止めることに成功した。
バルジの戦いは1945年1月25日に終わり、形式的には引き分けだったが、ドイツ軍にとっては大惨事だった。数万人の兵力と、戦車や火砕など数千トンに及ぶ装備を失ったのである。さらに新たな攻勢への警戒から連合軍はソ連に支援を求め、ソ連はこれに応えてヴィスワ・オーデル攻勢を発動。赤軍は2月初旬にはベルリンから70キロの地点まで迫った。
ちなみにルクセンブルク民兵も貢献していた。ハンス・プリッジ中尉指揮下の第5大隊第4中隊(Fallschirmpionier=降下工兵)の落下傘部隊に対し、城から射撃を加えたのである。ただし、その後ドイツ軍の攻勢が大規模になると、彼らは撤退して米軍と合流せざるを得なかった。
英雄のその後と城の現在
戦後、多数の勲章を授かったヴィクトル・アベンスは国会議員に選ばれ、ヴィアンデン市長にも就任した。1964年には欧州評議会議員会議のメンバーに、1979年には欧州議会議員に選出され、1987年に政界を引退。6年後、リエージュで死去した。彼の功績を記念して、現在ヴィアンデンの市庁舎前広場には彼の名が冠されている。
一方の城は、近代戦争においても一定の軍事的価値を持つことを証明したが、その後は観光へと活路を見出した。1962年に武具庫が修復され、1977年に国家へ移管されると、13年をかける大規模な改修工事が実施された。現在は一般公開されており、皮肉なことに、来訪者の多くはドイツ人だという。