植民地化以前の時代は、1500年から1535年頃までの期間を指します。この時代の最大の特徴は、ブラジルに対するポルトガルの本格的な植民地政策がほとんど存在しなかったという点にあります。

「植民地化以前の時代」とは
ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達した1500年から、世襲制カピタニア(分封領)制度が導入された1530年代半ばまでの期間は、ポルトガル側に明確な植民地化政策やブラジルへの人口移住計画がなかったことから、多くの歴史家によって「植民地化以前の時代」と呼ばれています。
この時期の経済活動は、パウ・ブラジル(ブラジルワッド)の採取と、ブラジル沿岸に設置された商館(フェイトリア)を中心として展開されました。
背景:ポルトガルの海外進出
ポルトガル人がブラジルへ到達した背景には、スペインからの独立後、ポルトガル王国の権威を固める過程がありました。さらに15世紀を通じて、エンリケ航海王子が「サグレス学校」を拠点に海洋探検を推進し、ポルトガルの海外拡張を積極的に後押ししました。
加えて、ポルトガルの商業ブルジョアジーも重要な役割を果たしました。彼らは航海を事業拡大の好機と捉え、王室にとっても新たな収入源となることが期待されていました。そして船乗りたちにとっても、遠征は一攫千金のチャンスだったのです。
ブラジル到達以前にも、ポルトガルの探検隊は15世紀を通じて着実に成果を挙げてきました。特筆すべきはマデイラ島への到達と、船団がアフリカ沿岸を迂回できる航路の発見です。これにより、アフリカやアジアの沿岸地域には次々と商業拠点が築かれていきました。
ポルトガル人のブラジル到達
ポルトガル人のブラジル到達は、13隻の船団を率いてリスボンを出港したペドロ・アルヴァレス・カブラルの遠征によって公式に実現しました。この遠征の本来の目的はインドへの到達であり、ヨーロッパでは希少性ゆえに高い価値を持つ香辛料(贅沢品)の貿易にありました。
カブラルのブラジル到達が偶然だったのか意図的だったのかについては、歴史家の間でも議論があります。嵐のために航路を外れた結果、偶然ブラジルに漂着したとする説もあれば、意図的に航路を変更したとする説もあります。しかし、いずれにせよ重要なのは、カブラルの遠征隊が1500年4月22日にブラジルに到達したという事実です。
興味深いことに、ブラジル到達はインド到達時ほどポルトガル国内で大きな話題にはなりませんでした。この関心の薄さは、アフリカ沿岸と同様にブラジルでも商館(フェイトリア)の建設を推進するという政策に表れています。
商館(フェイトリア)の役割
フェイトリアとは、ポルトガルの商業活動の拠点となる貿易前哨基地のことです。最初の3年間はフェルナン・デ・ノローニャにその運営が委ねられましたが、1505年以降はポルトガル王室が直接管理するようになりました。
当時のブラジルはまだ可能性の未知なる大地であり、一方でインドとの貿易は非常に利益率が高いものでした。そのためポルトガルは、当面利益を見込める唯一の商品であるパウ・ブラジルの採取に絞って経営を行ったのです。
パウ・ブラジルの採取
パウ・ブラジルの木材は赤色の色素を含み、織物の染料として珍重されました。さらに材質も優れていたため、キャラベル船の建造材料としても利用されました。
この採取作業は先住民との協力のもとで行われました。先住民はパウ・ブラジルを切り出し、その報酬として布、ナイフ、鏡など、ポルトガル人にとってはほとんど価値のない小物を受け取りました。こうした物品は先住民にとっては目新しいものであり、両者の間で交易が成立していたのです。
外国勢力への警戒
ブラジル沿岸に設けられた商館には、外国からの侵入を防ぐ防衛拠点としての役割もありました。アメリカ大陸はトルデシリャス条約によってポルトガルとスペインの間で分割されていましたが、フランスなど一部の国々はこの分割に納得せず、両国の領有権を認めずに進出を続けていたのです。
世襲制カピタニア制度への移行
インドとの貿易の衰退と、フランスによるポルトガル領土への脅威が高まったことを受け、ポルトガル王室は1530年代以降、世襲制カピタニアの設置という新たな植民地政策を実施します。
この制度では、ブラジルが15の区画に分割され、それぞれの開発・統治が第三者(貴族や商人)に委譲されました。世襲制カピタニア制度の導入は、ブラジルに新たな経済サイクルをもたらすとともに、植民地化以前の時代の終焉を意味するものでした。
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