クリスタルナイト(水晶の夜)は、1938年11月9日から10日にかけて、ナチス政権がドイツ国内のユダヤ人に対して組織的に実行した大規模なポグロム(集団的暴力襲撃)に付けられた名称です。
「ポグロム」とは、特定の集団に対して組織的に行われる暴力的な襲撃を指す言葉です。クリスタルナイトは、ドイツ政府が国内に暮らすユダヤ人住民に対して実行したポグロムでした。
多くの歴史家は、この出来事を象徴的な転換点として捉えています。クリスタルナイトによって、ドイツにおけるユダヤ人への暴力路線が決定的となり、ユダヤ人を強制収容所へ送るプロセスが本格的に始動したためです。それまでの弾圧は主に政治・法の分野で行われていましたが(暴力的な襲撃も散発してはいました)、クリスタルナイト以降、「ユダヤ人に対する暴力が大幅に拡大する」というメッセージが明確に示されたのです。
「水晶の夜」という名称は、ユダヤ人所有の店舗のショーウィンドウが破壊され、ドイツ各地の大都市の路上にガラスの破片が散らかったことに由来します。
なぜ1938年にユダヤ人へのポグロムが起きたのか
ヒトラーにとってユダヤ人問題に対する答えは単純でした。すなわち、すべてのユダヤ人をドイツから追放するというのが最終目標だったのです。ナチズムのイデオロギーは徹底した反ユダヤ主義に基づいており、こうした憎悪は19世紀以来、ドイツ社会に深く根付いていました。
1938年当時、ユダヤ人の置かれた状況は各方面で極めて危機的でした。ドイツ社会での差別は日増しに激化し、市民権や自由といった権利の多くがナチス政権によって次々と剥奪されていました。そして1938年のポグロムは、ユダヤ人への「暴力と収監」の時代の幕開けとなったのです。
クリスタルナイトは、在パリのドイツ外交官エルンスト・フォム・ラートの暗殺事件への報復として、ナチ党によって組織されました。ラートを襲ったのは、当時17歳のユダヤ人学生ヘルシェル・グリュンシュパンでした。彼はポーランド出身のユダヤ人移民の家庭にドイツで生まれ育ちましたが、家族がドイツから追放されたことに深く憤慨していました。
1938年11月7日、グリュンシュパンは拳銃を持ってパリのドイツ大使館を訪れ、駐フランス・ドイツ大使の暗殺を図りました。しかし、銃撃の犠牲となったのは外交官のエルンスト・フォム・ラートでした。ナチスはこの事件を利用し、ドイツ国内での反ユダヤ主義プロパガンダを一段と強化していきました。

パリで襲撃され亡くなったドイツ外交官エルンスト・フォム・ラートの葬儀
事件の報道が広まると、ドイツ各地でユダヤ人への襲撃が「自発的に」起こったかのように見せかけられました。しかし実際には、それはナチス政府が国土全域で綿密に調整した組織的な行動でした。ヒトラーと宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは会談し、この事件をユダヤ人共同体への攻撃に利用することを決定したのです。
両者が党員に下した指示は極めて明快で、国内各地でユダヤ人への襲撃を組織するよう命じていました。ただし、その襲撃はドイツ政府が関与していないように装う形で実行されることになっていました。つまり、攻撃が民衆の自然発生的な行動であるという印象を与えることが狙いだったのです。
命令を受けたナチス党幹部たちは、各地の党指導者や突撃隊員に連絡を取り、襲撃の具体的な進め方について指示を伝えました。指示内容には以下のような項目が含まれていました。
- 略奪行為を行ってはならない
- 外国人ユダヤ人はいかなる場合も攻撃してはならない
- ドイツ人の財産を損なわないよう、ユダヤ人商店を焼き払わない
こうした指示を受け、ナチスのグループ――その大部分は突撃隊(SA)関係者でした――が動員され、ユダヤ人への襲撃を開始しました。クリスタルナイトの参加者の大多数が私服姿だったのは、襲撃を党とは無関係の自発的な行動に見せるためでした。
クリスタルナイトはどのように実行されたのか
クリスタルナイトは、それまでのナチスによるユダヤ人襲撃の中で最大規模のものとなりました。これまでにも数多くの暴力的行為が行われてきましたが、全国規模でこれほどの規模に及ぶユダヤ人襲撃は前例がなかったのです。ナチスの構成員は上層部からユダヤ人への暴力を積極的に奨励され、一方で警察は襲撃を制止しないよう指示されると同時に、ユダヤ人を逮捕するよう命じられていました。
参加者の多くは、1923年にナチスがバイエルンで起こしたクーデター未遂事件「ミュンヘン一揆(ビアホール一揆)」の15周年を祝う意気込みでも臨んでいました。暴力のエスカレートぶりは前例のないものでした。ナチスは全国各地でシナゴーグ(ユダヤ教会堂)、商店、ユダヤ人の住宅を襲撃し、数千人が暴行を受け、多くの犠牲者が出ました。
歴史家リチャード・J・エヴァンズは、1938年のポグロムによる被害を次のようにまとめています。
- 520のシナゴーグが破壊された(実際には1000以上だった可能性もある)
- 7500〜9000軒のユダヤ人商店が破壊された
- 公式発表では91人が死亡したが、実際の死者数は1000人を超えた可能性がある
- 3万人が逮捕され、強制収容所へ送られた
- 物的損害は3900万ライヒスマルクと算定された
襲撃のピークが過ぎた後、多くのユダヤ人は新たな襲撃を恐れて住み慣れた土地を離れました。また、表通りに出れば攻撃されるおそれがあるため、家に隠れて過ごす者も少なくありませんでした。逮捕された3万人のユダヤ人は、ダッハウ、ブーヒェンヴァルト、ザクセンハウゼンの3つの強制収容所に送られました。ポグロムは、1938年11月10日にゲッベルスが発した命令によって終息しました。
出典:Richard J. Evans, The Third Reich in Power/画像提供:Everett Historical、Shutterstock