古代の歴史

ブラジル第一帝政期とは?ペドロ1世の統治と1824年憲法、退位までの歴史

ブラジル独立と第一帝政期の始まり

ブラジル第一帝政期とは?ペドロ1世の統治と1824年憲法、退位までの歴史

独立を果たしたブラジルは君主制国家となり、1822年から1831年にかけてドン・ペドロ1世(D. Pedro I)が統治しました。この時期は「第一帝政期」と呼ばれています。

第一帝政期(1822年~1831年)は、ドン・ペドロ1世が主導した独立プロセスを経て、ブラジルが独立国家として歩み始めた最初の時代でした。この結果、ブラジルはラテンアメリカで唯一の君主制国家となり、ドン・ペドロ1世による権威主義的な統治が敷かれることになりました。

ブラジル独立の経緯

ブラジルの独立プロセスは、ポルトガル議会がドン・ペドロ1世に加えた圧力が発端でした。ペドロは1821年、父であるドン・ジョアン6世がポルトガルへ帰還した後、ブラジルの摂政に就任していました。ポルトガル議会はポルト自由主義革命の中で形成され、ポルトガル本国における変革を王室当局へ求める圧力を強めていました。

摂政へのこうした圧力は、結果的にブラジルとポルトガルの決別を主導する動機となりました。ドナ・レオポルディナやジョゼ・ボニファシオらに後押しされたドン・ペドロ1世は、1822年9月7日、イピランガ川のほとりで自らブラジルの独立を宣言します。その後、ブラジル各地で比較的小規模な戦闘が展開される独立戦争が起こりました。

ブラジルの独立がポルトガルに実際に承認されたのは1825年のことです。イギリスの仲介による交渉の結果、200万ポンドの賠償金の支払い、およびブラジルが他のポルトガル植民地の独立を主張・支援・主導しないことが条件とされました。

独立に伴い、ドン・ペドロは皇帝として即位し、「ドン・ペドロ1世」を名乗りました。これによりブラジルは、ラテンアメリカ諸国の独立後において唯一の君主制国家となりました。歴史家たちは、君主制が選ばれた理由について、南東部のエリート層が共和制導入に伴いうる社会経済構造の変化に関心を持たなかったためだと説明しています。

第一帝政期の主な出来事

独立直後の2年間、ブラジルでは国際的承認の獲得と並んで、憲法制定が最大の論争テーマとなりました。この文書は、独立後に実施された選挙で選出された制憲議会によって起草される予定でした。

制憲議会は1823年5月に活動を開始しましたが、憲法草案をめぐって議員たちとドン・ペドロ1世との間に深刻な対立が生じます。最大の争点は皇帝の政治権限の範囲でした。議員たちは皇帝の権限を制限し、皇帝が恣意的に制憲議会を解散することを禁じることを求めました。王権の抑制を目指すこの姿勢は当然ながらドン・ペドロ1世の不満を招きました。彼自身は、中央集権的かつ権威主義的な権力こそが国家に必要だと考えていたからです。

この対立は「苦悩の夜(ノイテ・ダ・アゴニア)」として知られる事件へと発展します。1823年11月12日、ドン・ペドロ1世の命令により兵士たちが制憲議会に突入し、皇帝に反対する議員たちが逮捕されました。これにより、起草されていた憲法はドン・ペドロ1世によって握りつぶされました。

この強硬策の背景には、同年9月に制憲議会が憲法草案を完成させていた事情があります。この草案は自由主義的な性格を持つと同時に、王権を制限する内容でもありました。反対派の逮捕と文書の否認の後、ドン・ペドロ1世は国務院を設置し、自らの意向に沿った憲法の起草に着手しました。

ドン・ペドロ1世と国務院によって作られた憲法は「欽定憲法」、すなわち皇帝の意志によって一方的に交付されるものであり、1824年3月25日に公布されました。したがって、ブラジル初の憲法は権威主義の産物であり、上から下へと押しつけられたものでした。この法体系には一部自由主義的な原則も盛り込まれていましたが、ブラジル皇帝には無制限の権限が与えられていました。

1824年憲法の主要な柱

  • 四権の存在:行政権・立法権・司法権に加え、調停権(モデラードール権)が設けられました。調停権は皇帝の地位のみに帰属し、皇帝に絶大な政治的権限を与えました。
  • 皇帝は神聖にして不可侵の存在とみなされました。
  • 統治形態は君主制と定められ、権力は世襲によって継承されました。
  • 選挙は間接選挙とされ、投票権は納税資格(センソ)に基づくものでした。つまり、所得基準によって投票権の有無が決まり、さらに25歳以上の自由身分の男性に限られると規定されました。
  • 憲法はまた、宗教的寛容(カトリック以外の宗教の私的礼拝の許可)、私有財産の保護など、重要な個人の権利も保障していました。

ドン・ペドロ1世の退位

ドン・ペドロ1世の権威主義的な姿勢は、とりわけ北東部のエリート層の間に強い不満を引き起こしました。この地域では、チプリアーノ・バラータと、通称「フライ・カネカ(カネカ修道士)」として知られるジョアキン・ド・アモール・ディヴィノの影響で、反皇帝の気運がさらに高まりました。両者はペルナンブコで発行される新聞『自由の哨兵』(チプリアーノ・バラータ)や『ペルナンブコのティフィス』(カネカ修道士)の紙上で皇帝への批判を展開しました。

皇帝の専制に加え、重税や1817年のペルナンブコ革命が地域に残した思想的影響も相まって、ペルナンブコ州は新たな反乱、すなわち赤道連邦(コンフェデラサン・ド・エクアドル)へと突き進みました。この反乱は1824年7月2日に始まり、カネカ修道士とマヌエル・デ・カルヴァーリョ・パイス・デ・アンドラーデが指導しました。

赤道連邦は、ペルナンブコ革命と同様に分離主義的な性格を持ち、共和主義を掲げていました。反乱はパライーバ、セアラー、リオグランデ・ド・ノルテなど北東部の他州にも波及しました。しかし1824年9月には帝政軍がレシフェを奪回し、反乱を鎮圧します。関係者は過酷に弾圧され、カネカ修道士も処刑されました。

赤道連邦のほかに、南部のシスプラティナ州でも反乱が勃発しました。この州は1810年代にドン・ジョアン6世がホセ・アルティーガスを破って同地域に侵攻・併合したものです。シスプラティナの反乱勢力は、この地域のブラジルからの分離と、ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)への併合を宣言しました。これを受けて1825年、シスプラティナ戦争として知られる紛争が勃発しました。

シスプラティナ戦争は、同地域の支配をめぐってブラジル帝国とブエノスアイレス政府が衝突した戦争でした。戦争は消耗戦として3年間続き、イギリスの仲介により1828年に両政府間で和平協定が調印されます。両国は東岸(バンダ・オリエンタル)を放棄し、この地域はウルグアイ東方共和国として独立を果たしました。

この協定は敗北と受け止められました。ブラジルはシスプラティナの支配を取り戻せなかったからです。さらに、戦争への関与はブラジル経済に大きな打撃を与えました。政治的権威主義、戦争の敗北、経済危機という要因の積み重ねが、ドン・ペドロ1世の立場を大きく弱体化させたのです。

ドン・ペドロ1世は自らの地位を強化しようと、「ポルトガル党」、すなわち独立に反対し、現在はペドロ1世の権力維持を擁護するポルトガル人勢力との結びつきをますます深めました。これは政治的不満をさらに悪化させ、「ポルトガル党」と「ブラジル党」の対立を激化させました。その結果、ドン・ペドロ1世は1831年4月7日、息子のペドロ・デ・アルカンタラに譲位する形でブラジル帝位を退いたのです。

幼い息子への譲位は、ブラジル史上「摂政期」として知られる時代の幕開けとなりました。ペドロ・デ・アルカンタラは当時わずか5歳であり、帝位に就く法定年齢に達していなかったためです。

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※画像クレジット:Georgios Kollidas/Shutterstock