古代の歴史

ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキー公 ― ポーランドの英雄、ナポレオン帝国元帥の生涯

ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキー(Józef Antoni Poniatowski、1763年ウィーン生まれ – 1813年ライプツィヒ没)は、生まれながらにポーランドおよび神聖ローマ帝国の公位を継承し、1813年にはフランス帝国元帥に列せられ、レジオンドヌール勲章の最高位「グラン・イーグル(大鷲章)」も受章した、ポーランド史に輝く英雄である。

ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキー公 ― ポーランドの英雄、ナポレオン帝国元帥の生涯
ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキー公

生い立ちとオーストリア軍時代

彼はポーランド最後の選挙王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキーの甥であり、父はオーストリアの陸軍元帥であった。こうした名門に生まれた彼は、オーストリア軍で軍人としての道を歩み始め、大佐に昇進するとともに皇帝の副官を務めるまでになった。

祖国ポーランド軍へ

1789年、彼はオーストリア軍を離れて叔父のもとへ戻り、少将としてポーランド軍に入った。スタニスワフ・アウグストはウクライナ方面のポーランド軍の指揮権を彼に委ね、1792年にはロシア軍と交戦した。しかし親露派によるタルゴヴィツァ連盟が結成されると、彼は優秀な将校たちを率いて軍を去った。

コシチュシュコ蜂起と隠棲の日々

1794年、第三次ポーランド分割(1795年)による国家消滅の直前に起こったコシチュシュコの独立解放軍には、一兵卒として志願参加したが、まもなく師団長として指揮を任されるようになった。だが蜂起は失敗に終わり、彼は自らの領地に隠棲した。その後、1806年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によりワルシャワ総督に任命されるまで、表舞台から離れて過ごしている。

ナポレオンとの出会いとワルシャワ公国

ナポレオンが現れ、ワルシャワ公国の臨時政府が樹立されると、ユゼフはフランス帝国側についた。これこそがポーランドが独立と領土を回復する唯一の望みだと確信したからである。彼はワルシャワ公国の戦争大臣に任命され、さらに総司令官(ジェネラリッシモ)にも就任した。1809年には国境を防衛し、オーストリア軍を撃退する功を挙げている。

ポーランド軍の再編とロシア遠征

戦争大臣として彼は新たなポーランド軍を再編成した。この軍はその後、ナポレオンの主要な戦いすべてで目覚ましい活躍を見せることになる。第5軍団を率いてロシア遠征に従軍した彼は負傷しながらも、モスクワ川の戦い(ボロジノの戦い)ではその才能を遺憾なく発揮した。撤退戦ではベレジナ川渡河の際にも再び負傷している。

1813年 ― 元帥杖と悲劇的な最期

ポーランド軍を立て直した彼は、1813年7月にザクセンでナポレオンと合流した。レーバウ、アルテンブルク、ペーニヒでの戦闘に勝利し、10月16日のヴァッハウの戦い(ライプツィヒの戦いの一部)における英雄的な働きにより、ついに元帥杖を授けられた。しかしそのわずか3日後、ライプツィヒの戦いに続く退却の途中、連合軍の捕虜になることを避けるためエルスター川を馬で渡ろうとした際に、命を落としたのである。

死後の栄誉

ポニャトフスキーの遺体は24日になってようやく発見され、防腐処理を施された上で、戦友たちの手によってワルシャワへ、さらにそこからクラクフのポーランド王の墓所へと運ばれた。彼はヤン・ソビエスキやタデウシュ・コシチュシュコの傍らに永眠している。ライプツィヒで行われたこの英雄の葬儀では、勝者と敗者が肩を並べ、まるで全ヨーロッパが一堂に会したかのような光景が繰り広げられた。

同時代人の評価

  • サヴァリは彼についてこう述べている。
    「我々はこの公爵ほど勇敢ではなかった。奔放にして気前よく、優雅さに満ちた彼は、彼が仕えた陣営から惜しまれたことが、彼と戦った陣営から敬愛されたことよりも深かった。」
  • 『セントヘレナ回想録』の中でラス・カーズは、ナポレオンの次の言葉を書き留めている。
    「真のポーランドの王はポニャトフスキーだった。彼はすべての称号を兼ね備え、あらゆる才能を具えていた。」
    この言葉を口にした後、ナポレオンは沈黙したという。