
式典の締めくくりと夜の祝祭
ムスリムの祈願に続いて大ウラマー(イスラーム法学者)が演説を読み上げ、続いてキリスト教聖職者たちによって賛歌「テ・デウム」が歌われた。式典はバウアー司教による長編の演説をもって幕を閉じた。
夜になっても祝賀は続いた。ヘディーヴ(エジプト総督)による花火が夜空を彩り、旗や幟で飾り尽くされたポートサイドの街全体が華やかな灯りに包まれたのである。
運河への第一歩
いよいよ船団が運河へと乗り入れていく。その先頭を切ったのは皇帝ヨット「イーグル(Aigle)」号だった。フランス皇帝ナポレオン3世の御料船である同船には、皇后ウジェニーの姿があった。午前8時半、「イーグル」号は二基の巨大な木製ピラミッド型の装飾に覆われた運河の入り口を、堂々と通過していった。
1時間15分後、ヨットはポートサイドから14キロメートルの地点にあるラズ・エル・エシュに到達。さらに正午12時半にはカンタラを通過した。所要4時間で44キロメートルを航行したことになる。幅18メートル、全長99メートルという巨体でありながら、その操舵は終始きわめて正確であったという。
カンタラでの歓迎
カンタラでは、エジプト海軍艦「ラティーフ」号からの敬礼が出迎えた。掘削工事で積み上げられた土砂による二つの巨大な塚が、緑に覆われた両岸を飾っていた。その頂には趣向を凝らした葉飾りの巨大な文字が掲げられ、片方には「皇后陛下万歳!」、もう片方には「イスマーイールへ、カンタラの街より」と読めたのである。
イスマーイーリヤ、宿を求めて右往左往
その頃、イスマーイーリヤでは空前の人波が渦巻いていた。あらゆる肌の色、あらゆる民族衣装の人々が、若葉と花に包まれた大きな揺りかごのような新興都市の広い街路にひしめき合っていたのだ。肩に銃を吊った砂漠のベドウィンたちはラクダやダマラクダにまたがり、食料やテント、あらゆる携帯品を積んだラクダの隊列が、徒歩の男たちに引かれて行き交った。ティムサ湖畔には、エジプト中の村のシェイク(長老)たちが一堂に会したかと思われるほどの人数が集まっていた。
ヨーロッパからの賓客や旅行者たちは宿を探したが、どこにも空きはなかった。ホテルはおろか民家まですべて埋まり、足の踏み場もないほどだったからである。幸い、副王の細やかな配慮がこの難局を救った。その指示により、淡水運河沿いに数床ずつのベッドを備えたテントの列が設営され、困窮する旅人たちに格別の安息の場を提供したのである。地元民たちもまた、街と淡水運河の間に無秩序にテントを張り連ねていたが、この乱雑さこそが逆に絵画的な趣を醸し出していた。
10万人の期待、水平線の煙
群衆は一分一秒と増し続け、ヘディーヴの試算によれば、17日と18日の両日だけでその数は10万人を下らなかったという。群衆の興奮は高揚していたが、それは喜びと確信に満ちた興奮であった。岸辺の人々は、地平線上に現れるかもしれない煙を吐く船影を、今か今かと待ち望んでいた。
そして午後4時半頃、黒ずんだ煙が現れた。ただしそれは正面ではなく、ティムサ湖の背後、ポートサイド側ではなくスエズ側からであった。人々は驚き、首をひねる。やがて、それらの蒸気船は紅海とイスマーイーリヤ間の航路を渡り終えたばかりの3隻のエジプト船の先触れであることが判明した。
静寂の入場、そして歓呼
ほぼ同じ頃、「イーグル」号はエル・ギースル閘門の巨大な掘割の両岸の間にその姿を現した。皇帝ヨットは穏やかな水面を、ある種の荘重な静けさを漂わせながらゆっくりと進んでいく。まるで自らが幕開けの担い手となる新たな運命について、思いを馳せているかのように。
「イーグル」号が声の届く距離まで近づくや否や、歓呼の声が沸き起こった。皇后自身がその熱気に拍車をかけ、観衆の喝采を最初に浴びるべき人物として、レスセップス氏を指し示したのである。
ティムサ湖での大歓迎
30分後、皇帝ヨットはティムサ湖に入り、3隻のエジプト軍艦からの礼砲で迎えられた。これに陸上砲台の斉射が加わる。その砲台を担当していたのは、この式典のために副王がイスマーイーリヤに呼び寄せた砲兵連隊である。さらに、アラブ人が喜びを表すために鳴らすあらゆる楽器の音色、そして王侯の歓迎史上類を見ないこの光景を取り囲む多様な民族の、熱狂と感謝に満ちた歓声が湖上に響き渡った。
レスセップスとの抱擁
錨が下ろされるや否や、ヘディーヴは急ぎ「イーグル」号に乗り移った。皇后に敬意を表した後、彼はレスセップス氏の腕の中に身を投げんばかりに、固い抱擁を交わしたのだった。