
1937年夏、フランスの威信をかけた長距離航空レース「イストル=ダマスカス=パリ」の決着の日。パリ近郊のル・ブルジェ飛行場には、ゴールとなる参加機の到着を待つ大勢の人々が集まっていた。
午後4時、最初に現れたのは敵国の機体
国務大臣アルベール・サローは、元航空大臣のローラン・エナックと談笑している。群衆の中には、前年に南大西洋横断飛行を成し遂げた女性飛行家マリーズ・バスティエの姿もあった。そして、地上ではどこか場違いなほどすらりとした長身のシルエット──アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリである。彼は親友アンリ・ギヨメを出迎えるために駆けつけたのだった。
午後4時、人々が一斉に空へ視線を上げた。管制塔が航空機の接近を知らせたのだ。ところが、やって来たのはフランス機ではなくイタリア機。クピーニとパラディージの操縦する三発機は、全長6,190キロのコースをわずか17時間32分で駆け抜けてきたのである。
アルベール・サローのふっくらとした顔の上で、唇は公式の微笑みと悔しさの引きつりの間を往復した。優勝者に祝辞を述べる暇もなく、今度は2機目の三発機が現れる。これまたイタリア機で、真紅の機体には3匹の緑色のネズミというユニークなエンブレムが描かれていた。さらにその5分後、3機目のイタリア機が着陸。降り立ったのは、ムッソリーニ総統の息子ブルーノ・ムッソリーニその人だった。
「航空界のウォータールー」の敗北感
そこには敗北の匂いが立ち込めていた。まさに「航空界のウォータールー」。フランス人たちの顔から次第に笑みが消えていく。……そして、私たちの顔はどうだろう。午後7時40分、ようやくエンジンの咆哮が聞こえてきた。だが、残念ながらそれはイギリス人クラウストンの機体だった。フランスの誇るコドス、ロッシ、ギヨメの各機は遥か後方に取り残され、その到着はずっと後になる。とはいえ彼らは、速度で劣る機体からありったけの性能を絞り出していたのだ。
翌日──博覧会を巡る勝者、屈辱を噛む敗者
翌日、イタリア人たちは肩の力を抜き、満面の笑みを浮かべて国際博覧会を見物して回った。一方のル・ブルジェでは、見物客が優勝機サヴォイアS.79を囲み、しきりに眺め入っていた。
スペイン共和国側の人々にとって、この機体は決して初見ではなかった。共和国軍の部隊や街を爆撃している、あの爆撃機そのものなのだから。
失望を噛みしめるフランス、右派紙の皮肉
フランス人は失望を胸の内に溜め込んでいた。すると右派の新聞が皮肉交じりに書き立てる。「ピエール・コ航空大臣はファシスト宣伝の手先なのか? 端的に言えば、このレースは延期するか、中止すべきだったのだ。ただ、必要以上に悲劇めかすのも如何なものか。我が航空界は危機の渦中にあるが、それでも数多くの成功を収めてはいる。とりわけ南大西洋においては」
こうして華々しい勝利を収めたサヴォイアS.79は、やがて第二次世界大戦でイタリア空軍の主力爆撃機として戦場に立つことになる。レースの栄光の陰で、欧州の空にはすでに戦争の気配が濃くなっていたのである。