古代の歴史

小規模な成功――第一次インドシナ戦争におけるフランス軍の戦術と限界

日本軍の撤退と列強の進駐

第二次世界大戦中、インドシナにはフランスの支配が名目上維持されていた。しかし1945年、日本軍は最後まで残っていたヨーロッパ人――文民も兵士も――を一掃し、彼らを処刑するか収容した。敵対行為が終結すると、今度は中国国民党軍とイギリス軍がこの地を占領した。中国軍は北部を、イギリス軍は南部を担当したのである。

1945年当時、ルクレール将軍がインドシナで指揮できた兵力はわずか4万人ほどだった。とはいえ、その兵士たちはヨーロッパ戦線を経験した歴戦の勇士たちであった。フランス軍の戦力が秩序維持に十分だと認められると、イギリス軍は撤退し、中国軍も説得によって同じく撤収していった。

ベルナール・B・フォールの鋭い指摘

歴史家ベルナール・B・フォール(Bernard B. Fall)は次のように述べている。
「インドシナに送られたフランス軍は、フランスがその使用を誘惑されずにはいられないほど強力でありながら、ヴェトミンが政治問題全体を『フランス人を海へ投げ込む』ことで解決しようとする試みを思いとどまらせるほど強力ではなかった……インドシナ紛争の起源は、この単純だが悲劇的な判断ミスにさかのぼることができる」。

「油しみ作戦」とその限界

手段の不足は、フランス軍のすべての作戦に重くのしかかった。特定の目標に対する小部隊による行動は概ね成功していたものの、包囲掃討や長期戦略である「油しみ(oil stain)」方式を実施できるだけの兵力は確保できていなかった。

この戦略は、19世紀に北アフリカでフランスが培った経験に基づくものだった。敵対的な国においては、まず確固たる拠点を築き、次に広がって他の雫と融合する油の雫のように、拠点間の地域を掌握しながら領内へと浸透していく。この手法はアフリカでは有効に機能した。フランスの要塞間の土地は過酷で、ゲリラが潜む余地がほとんどなかったからだ。ところがインドシナでは事情が異なった。丘陵とジャングルが格好の隠れ場所を提供し、村々は食料と物資を供給した。まさにゲリラという「魚」が泳ぐ「水」だったのである。

包囲掃討戦術の実際

格子状(グリッド)に区切られた丘陵やジャングルはいくつもの区域に分割され、順次捜索が行われた。これらの戦術は、もともと中国国民党軍が用いていたもので、「包囲・捜索(cordon and search)」戦術を洗練させた掃討作戦として発展していた。ヴェトミンの潜伏先として疑われた地域は包囲され、包囲網は中心部へと狭められていく。中心で合流すると、部隊は反転して再び外周へと向かい、こうして地域の一掃を図ったのである。

しかし実際には、現地のヴェトミン部隊は極めて巧妙な手段で地下に身を隠すことができたし、より規模の大きい「正規」部隊は、包囲網が張り巡らされる前に脱出することが可能だった。

空挺部隊の投入

包囲網の設置を急ぎたいという要求こそが、フランス軍に空挺部隊を使用させる動機となった。これは後の第二次インドシナ紛争(ベトナム戦争)でアメリカ軍がヘリコプター部隊を用いたのと同じ発想である。戦場に兵士を落下傘で降下させたからといって、その兵士が優秀な戦闘員になるわけではないのは自明の理であり、質を保証するのはあくまで訓練と選抜である。落下傘は目的を達成するための手段にすぎず、フランス軍はこれを150回に及ぶ大規模作戦で投入することになった。