古代エジプトの王族や神官のミイラは、世界中の人々の好奇心を刺激し続けてきました。棺に包まれたミイラの中には何があるのか――誰もがその謎を解き明かしたいと願ってきました。しかし、第18王朝のファラオ・アメンホテプ1世のミイラだけは、現代に至るまで一度も物理的に開封されることがありませんでした。そんな中、科学者たちがCTスキャンを用いた「デジタル解体」に成功し、3500年前の王の姿が初めて明らかになったのです。
デジタル解体でわかったこと
研究チームが『Frontiers in Medicine』誌に発表した報告によると、アメンホテプ1世は死亡時35歳、身長約169cmで、割礼を受けており、健康状態にも大きな問題はなかったことが判明しました。長管骨の骨端線の閉鎖状態や恥骨結合の表面形態から推定されたこの年齢は、王が比較的若くして自然死した可能性を強く示唆しています。
CT画像から再現された王の容貌は、父であるアフモセ1世によく似ていました。細いあご、やや細い鼻、巻き毛、そしてやや突出した上の前歯。左耳の耳たぶには耳飾り用の穴が開いており、頭部の後ろ側と側面には巻き毛の髪が残っていました。顔は楕円形で、くぼんだ眼と平坦な頬、小さく薄い鼻が特徴的です。
興味深いことに、死因につながるような外傷や病変は一切見つかりませんでした。確認できた損傷はすべて死後に加えられたもので、元々の埋葬後に盗掘者によって損なわれ、その後第21王朝の神官たちによって修復された痕跡だったのです。
なぜこれまで開封されなかったのか
ハリウッド映画の影響もあり、エジプトのミイラには呪いや伝説のイメージがつきまといます。しかし、研究者たちがアメンホテプ1世のミイラを開けなかった理由は、そうした迷信ではありません。
実際には、このミイラは丁寧に包まれ、美しい花輪で飾られ、顔と首には色石を象り込んだ精巧で生き生きとした仮面がかけられていました。1881年に発見された当時、エジプト学の権威ガストン・マスペロは、あまりの見事な装いに、このミイラをそのままの状態で保存することを決めたのです。ちなみに、ミイラの調査時には、花輪の香りに惹かれて閉じ込められたとみられる保存状態の良いスズメバチも発見されています。
アメンホテプ1世とはどんな王だったのか
アメンホテプ1世は、父アフモセ1世の死後に即位した第18王朝第2代のファラオで、紀元前1525年頃から紀元前1504年頃まで、約21年間エジプトを統治しました。エジプト学者たちは、母后アフモセ=ネフェルタリとの共同統治だったと考えています。「アメンホテプ」という名は「アメン神は満ち足りたまえり」を意味し、王位名「ジェセルカラー」は「ラーの魂は聖なり」を意味します。
治世において彼は国境を守り、クシュ(ヌビア)への戦いやリビアへの遠征を指揮する一方、内政では行政組織の整備と神殿建築に力を注ぎました。カルナックのアメン神殿、サイ島のヌビア神殿、エレファンティネ、コム・オンボ、アビドス、ネクベト神殿など、数多くの建造物が彼の時代に建てられています。死後もデイル・エル・メディナの職人たちから厚く崇拝されました。
発見から現在までの歩み
アメンホテプ1世の本来の墓は、今日に至るまで発見されていません。彼のミイラが見つかったのは1881年、ルクソールのデイル・エル・バハリ王家の隠し墓所(ロイヤル・キャッシュ)でした。ここは、盗掘から守るため、第21王朝の当局者が新王国時代の王や貴族のミイラを集めて再埋葬した場所です。
ミイラは棺に収められた完全な包装状態で発見され、棺に刻まれたヒエログリフによってアメンホテプ1世のものであることが証明されました。記録によれば、盗掘被害を受けたミイラは第21王朝の神官たちによって二度にわたり包み直されています。一度目はテーベのアメン大神官ピネジェム1世によって、二度目はその約10年後、息子マサハルタによってです。
発見後まもなくミイラはカイロへ運ばれ、最初はブラーク博物館に、次いでギーザの宮殿に収められ、1902年には他の王室ミイラとともにタハリール広場のカイロ・エジプト博物館へ移されました。
CT研究の詳細
研究チームはCTを用いてミイラを解析し、頭部の仮面、包帯、そして仮想的に解体されたミイラ本体の三次元画像を作成しました。包帯の層を一つずつ剥がしていくことで、ミイラの外側から内側まで詳細に分析することが可能になったのです。
ミイラには30個のアマレット(護符)や装身具が添えられており、その中には金製とみられるビーズで作られた腰帯も含まれていました。また、両腕を胸の前で交差させた姿勢で包まれており、これは新王国時代のミイラとして知られる最古の例と考えられています。右前腕は別個に包まれていました。
頭部の仮面はカルトナージュ(麻布を糊で固めた素材)で作られ、石製の眼が嵌め込まれています。仮面は頭部と首を覆い、三部分からなるかつらの形状で、表裏とも胸の中央まで続いていました。
脳と内臓の処理
古代エジプトでは、遺体の腐敗を防ぎ来世での復活に備えるため、30世紀にわたってミイラ製作が行われてきました。葬送儀礼やミイラ製作の方法は時代とともに変化しており、王室のミイラはその技術を知る貴重な情報源となっています。
一般的に、脳は鼻から器具を挿入して頭蓋底の脆弱な部分を破壊して取り出すのが通例でしたが、アメンホテプ1世の場合、CT画像から脳を取り出す処置が行われていないことがわかりました。脳は乾燥して縮み、頭蓋骨の後方に残ったままだったのです。これは、脱脳処置が普及する以前の、第18王朝初期の特徴的な技法を示しています。なお、同時代の王族ミイラ(タア2世、メリタメゥン、トトメス2世、トトメス3世、ハトシェプストなど)も未開封のまま残されており、今後の比較研究が期待されます。
一方、内臓は腹部の切開を通じて除去されていました。心臓は来世の審判に必要な器官として、体内に残されていたとみられます。
装身具と護符
先王朝時代以降、エジプトのミイラには貝殻や真珠から金や宝石まで、様々な素材の装身具が添えられてきました。最も有名な例はツタンカーメンのミイラですが、隠し墓所から発見された新王国時代の王族ミイラでは、副葬品が少ないのが通例でした。ただし過去のCT検査では、トトメス3世が包帯の下に2つの金のブレスレットを着けていたことが確認されています。
今回のCT画像には、アメンホテプ1世の遺体の腰部に直接置かれた34個の金ビーズからなる腰帯が写っていました。また、第21王朝の神官たちは再埋葬の際、腹部の欠損を隠すために亜麻布の下に2つのアマレットを挿入したと考えられています。『死者の書』には、特定の護符とその適切な配置位置が記されており、神官たちはそれに従って装着したものと思われます。
花輪と仮面
ミイラには、デルフィニウム・オリエンターレ、セスバニア・エジプティアカ、アカシア・ニロティカ、カーマンサス・ティンクトリウスといった花々で作られた花輪が掛けられていました。古代エジプトでは、複雑な埋葬儀礼の一環としてミイラ仮面が用いられ、多くはカルトナージュ製でした。
CTスキャンという調査手法
ミイラの調査において、CTスキャンは診断のゴールドスタンダードとされています。一方、MRIは体内の移動可能な水素原子の分布情報が主となるため、乾燥したミイラの調査にはほとんど役立ちません。将来的には、2種類のエネルギーを使い分けることでエンバーミング材料の特定・分析に役立つデュアルエネルギーCTの活用も期待されています。
こうした専門的なCT撮影手法は、ペルーのミイラなど他文明のミイラに関する古人類学・生物考古学研究に応用できるだけでなく、法医学の分野でもますます活用されつつあります。
なお、ヒエログリフの解読によれば、このミイラが最後に開けられたのは紀元前11世紀頃のこと。没後400年以上を経て、神官たちの手により修復と再包装が行われたのです。学者たちは、これは盗掘による損傷を修理するとともに、王室の埋葬具を後のファラオのために再利用する意図があったと考えています。
結論
CTによるデジタル解体は、ミイラに一切の損傷を与えることなく、アメンホテプ1世の身体的特徴、第18王朝初期のミイラ製作技法、そして第21王朝の神官たちによる再埋葬の実態を明らかにしました。
かつては、トトメス1世のために作られた2基の棺が第21王朝のピネジェム1世に転用されたように、王族の埋葬具の流用で非難されることもあった神官たち。しかし今回の調査結果は、彼らが先王のミイラを献身的に修復し、貴重な護符や宝石を添えて丁重に再埋葬していたことを物語っています。デジタル解体は、3500年の時を超えた神官たちの敬意と厚情を、私たちに改めて思い起こさせてくれるのです。
ちなみに、ミイラのデジタル解体はアメンホテプ1世が初めてではありません。それ以前に、紀元前3世紀頃にテーベ(現在のルクソール)で暮らし、ムントゥ神に仕えた神官ネスワイウのミイラがデジタル解体されています。彼の遺体は1928年の開館時に地中海博物館へ寄贈されました。