マキシム・ウェイガンド(Maxime Weygand、1867年1月21日 - 1965年1月28日)は、フランスの陸軍大将、アカデミー・フランセーズ会員。第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方で重要な役割を果たし、その生涯は栄光と論争、そして悲劇的な晩年で彩られた。
出生と謎めいた出自
1867年1月21日、ベルギーのブリュッセルで生まれたウェイガンドの出自には、長年にわたり諸説が存在する。ある説ではメキシコ皇后シャルロッタの私生児とされ、別の説(シャルル・フーヴェズ『ウェイガンドの謎』1967年)ではベルギー国王レオポルド2世の私生児で、母親はリトアニア系貴族の妻コサコフスカ伯爵夫人だとされる。ウェイガンド本人は生涯これを肯定も否定もしなかった。
幼少期はマルセイユでユダヤ系のコーエン・デ・レオン家に養育されたが、回顧録では養父母について一切触れず、家庭教師と高校の司祭から受けたカトリック教育への感謝のみを記している。
軍人としての出発
「マクシム・ド・ニマル」の名で1885年、サン・シール陸軍士官学校に外国人生徒(ベルギー国籍)として入校。1887年卒業時には騎兵科を選択した。その後、コーエン・デ・レオン家の会計係ウェイガンド氏の養子となり、その姓を継いでフランスに帰化した。
ドレフュス事件の際には、ドレフュスを告発したボルドロー文書の偽造者アンリ大佐の未亡人への募金に名を連ね、反ドレフュス派の立場を明確にした。
大尉昇進後、参謀本部課程(高等軍事学院)への進学を拒み「兵士と共にありたい」と現場にこだわったが、1902-1907年と1910-1912年にソーミュール騎兵学校教官を務め、1913年には高等軍事研究センターに入所。ここでジョフル元帥の目に留まる存在となった。
第一次世界大戦:フォッシュの右腕として
開戦時、ウェイガンドはナンシーの第5ユッサール連隊の中佐だった。モルアンジュの戦いに参加後、ジョフルの命令改編により1914年8月28日、フォッシュ将軍付きの中佐参謀長に任命される。1916年准将、1917年仮任師団長となり、1918年3月フォッシュが連合軍総司令官になると、その参謀長として休戦交渉を補佐し、コンピエーニュのレトンド車両でドイツ代表に休戦条件を読み上げた。
前線指揮経験なしで参謀総長級まで上り詰めた稀有な例として、ド・ゴール元帥は回顧録で皮肉を込めてこの経歴を記録している。
戦間期:ポーランドからシリア、参謀総長へ
ポーランド・ソビエト戦争(1920年)
1920年、ピウスツキ元帥の顧問としてポーランドへ派遣。「フランス軍事使節団」を率い、トゥハチェフスキー率いる赤軍の猛攻で壊滅寸前だったポーランド軍を支援。ワルシャワの戦い(ヴィスワ川の奇跡)での勝利に貢献したが、その功績をめぐっては「ポーランド軍単独の勝利だ」(ノーマン・デイヴィスら)とする説と、フランス人将校たちがポーランド軍の再編・指導に当たったとするフランス側の見解が対立している。
シリア高等弁務官と陸軍中枢
1920年陸軍大将、1923年陸軍大将(格上げ)。グーロー将軍の後任としてシリア高等弁務官に就任。1924年最高戦争会議議員、1925年高等軍事研究センター所長、1930年陸軍参謀総長、1931年アカデミー・フランセーズ会員(ジョフルの後任席次)に選出。1935年定年退官までヒトラーの脅威を説き、軍縮に反対した。退官後も年齢制限なしで現役留任し、1938年には「フランス軍は戦えば勝てる」と楽観論を展開した。
第二次世界大戦:逆転のシナリオを書けなかった男
奇怪戦期:中東方面軍司令官
1939年8月、ダラディエ大統領の要請で現役復帰し、中東方面軍司令官兼レバント高等弁務官に就任。独ソ不可侵条約によりソ連がドイツ側についたと見なし、コーカサスのソ連油田への攻撃計画を立案した。
1940年5月:総司令官就任と手遅れの反撃
1940年5月、ガムラン総司令官が消極的と更迭され、5月17日ポール・レイノー首相によって後任に指名される。同日ペタン元帥が入閣。ドイツ装甲師団がスダン突破から西進し、連合軍をベルギーで包囲する中、19日着任したウェイガンドはガムランから「予備兵力ゼロ」の報告を受け、北方軍群への反攻命令を撤回。自らイーペルへ飛び、ベルギー国王レオポルド3世とビロット将軍と会談し、突出したドイツ装甲部隊を切り離す反攻を指示したが、既にドイツ主力が後続しており、実行役のビロット将軍が翌日に事故死、英国遠征軍司令官ゴート卿は不参加、ブランシャール将軍は会議欠席と、指揮系統は崩壊。24日には攻勢断念、ダンケルク撤退が不可避となった。
ブリアール会議:英仏同盟の決裂
ダンケルク撤退(5月31日-6月3日)後、6月5日ドイツ軍の第二次攻勢開始。6月10日パリ開放都市宣言、イタリア参戦。翌11日ブリアールで開催された英仏最高戦争会議で、ウェイガンドとペタンは「戦闘継続は国家の全滅を招く」と即時休戦を主張。チャーチルは RAF 戦闘機隊25個中隊の派遣を拒否(本土防空優先)、レイノー首相の「帝国での抵抗継続」案もウェイガンドらに退けられた。チャーチルとド・ゴールは回顧録でウェイガンドを「敗北主義的、反英的、反共和主義的」と罵っている。
休戦成立と国防相就任
その後の閣議でウェイガンドは軍事的・治安的理由から休戦を強硬に主張。「共産党指導者トレーズがドイツ軍のトラックで帰国し、エリゼ宮に座るかもしれない」とのデマまで持ち出し、秩序維持のため休戦不可避を説いた。レイノー首相が「北アフリカへ政府移転、軍のみ降伏」案を出すと「軍のみが降伏するのは不名誉」と激しく反発、辞任をチラつかせて拒否。6月16日レイノー辞任、ペタン内閣成立、17日休戦申込み。同日ウェイガンドは国防相に就任。
皮肉なことに、英国勝利を信じていなかったウェイガンドだが、ジャン・モネの証言通り、フランスが米国軍需産業と結んだ契約権利と輸送中の兵器をすべて英国に譲渡するよう命じた。一方でド・ゴールの亡命を認めず、帰国命令→拒否→大佐降格→軍法会議二度開廷→1940年8月2日死刑判決(欠席裁判)という徹底ぶりを見せた。
ヴィシー政権下:アフリカでの「協力」と「粛清」
国防相(1940年6月-9月)を経て、フランス領アフリカ総代表に就任。ペタンの「国民革命」に共鳴し、北アフリカでヴィシー政策を徹底適用した。
- 人種法の独自拡大:ユダヤ人排除法令を超え、1941年9月30日付回覧第343QJ号で「高等教育法令に準ずる」としてユダヤ児童を小学校まで含む公立学校からほぼ全面排除(本土では未実施)。
- 抑圧装置の構築:フリーメイソン禁止、外人部隊志願兵・政敵・難民をアルジェリア・モロッコ南部の収容所に投獄。
- 独伊休戦委員会への隠蔽と独自武装:人員・兵器を隠匿、メルセルケビールとダカール攻撃後は休戦軍を増強、ルネ・カミーユの機械化徴兵システムを承認、「フランス青年作業団」創設で青年をマレシャル主義に染め上げた。
- 「反逆」の芽を摘む:部下将校(フェイ、ダルトワ、ボーフル各指揮官)が米軍支援による再参戦計画を立てたとの密告を受け逮捕・軍法会議へ。「この歳で反逆者にはなれん」の一言で切り捨てた。
- 二重外交の実態:ダルランが署名した1941年5月28日パリ議定書(ビゼルト・ダカール基地提供、枢軸と軍事協力)を「現地住民の面目」を理由に抗議して潰したが、裏では第4局を通じロンメルのアフリカ軍団へフランス軍在庫からトラック1,200両(ダンクワース契約)と重砲・砲弾を供与していた。
ヒトラーはこの「部分的協力」に不満を持ち、ヴィシー政府に圧力をかけて1941年11月ウェイガンドを本国召還。1942年11月連合軍の「トーチ作戦」上陸と全土占領後、ドイツはウェイガンドを自国へ連行・軟禁。1945年5月米軍の手に渡りフランスへ送還、ヴァル・ド・グラースで協力罪で勾留されたが、1946年5月釈放、1948年最高法廷で全容疑無罪(不起訴)となった。
晩年:ペタンの名誉回復に捧げた余生
釈放後はペタン元帥の名誉回復運動に尽力。1965年死去の際、ド・ゴール大統領はアンサンブルでの国葬を拒否した。波乱に満ちた生涯は、軍人としての卓越した参謀能力と、政治的判断の致命的誤り、そして権力への服従と独自の残虐性を併せ持った複雑な人物像を今に伝えている。