モーリス・ポール・エマニュエル・サライユ(Maurice Paul Emmanuel Sarrail、1856年4月6日~1929年3月23日)は、第一次世界大戦期に活躍したフランスの陸軍将軍です。フランス南部のカルカソンヌに生まれ、パリでその生涯を閉じました。熱心な共和主義者として知られ、政治との深い関わりが軍歴全体に影を落とした特異な存在でした。

基本プロフィール
- 生誕:1856年4月6日、フランス・カルカソンヌ
- 死去:1929年3月23日(73歳没)、フランス・パリ
- 国籍:フランス
- 所属:フランス陸軍
- 最終階級:師団将軍(少将相当)
- 軍務期間:1877年~1925年
- 従軍経験:第一次世界大戦
- 主な指揮職:第三軍司令官(1914年~1917年)、東方連合軍総司令官
- 墓所:パリ廃兵院(アンヴァリッド)
初期の軍歴
サライユは1875年から1877年にかけてサン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後は歩兵科将校としてキャリアを歩み始めました。その後、1883年から1885年まで陸軍大学校(エコール・シュペリウール・ド・ゲール)に在籍し、参謀としての素養を磨いています。
サン・マクサント士官学校の校長を務めた後、1900年から1907年までは陸軍大臣付副官として勤務しました。アンドレ将軍と近い関係にあり、熱心な共和主義者であったサライユは、代議院軍事警備隊の指揮官を経て、1907年3月7日から1911年3月27日まで陸軍省歩兵局長を務めました。当時のフランス軍では、カトリック教会の影響を抑えて共和制を守る姿勢が重視されており、サライユはその代表的な将軍の一人と見なされていました。
1911年3月27日に第12歩兵師団長に就任し、続いて1913年10月1日に第4歩兵師団長へ異動。さらに同年11月1日には第8軍団司令官に任命され、1914年4月24日からは第6軍団司令官を務めました。
第一次世界大戦での指揮
開戦直後の1914年8月22日、サライユは第6軍団を率いてヴィルトンの戦いに参加しました。同年8月30日には、ジョフレ総司令官によって解任されたリュフィー将軍の後任として第三軍司令官に就任し、翌9月のマルヌの戦いを迎えることとなります。
しかし、ジョフレ将軍への強い批判が災いし、1915年7月22日に解任されました。とはいえ、政界に広がる人脈を背景に、わずか数か月後の10月3日には「東方フランス軍」総司令官という新たな要職を与えられます。1915年10月のヴァルダル攻勢で同軍を指揮し、1916年8月11日には東方連合軍総司令官へと昇格しました。
1916年11月にはバルカン戦線の要衝モナスティル(現在の北マケドニアのビトラ)を目指す攻勢を発動しましたが、決定的な成果は得られませんでした。一方で、1917年にギリシャ国王コンスタンティノス1世を退位へ追い込み、連合国側に付かせる過程で重要な役割を果たしています。ただし、サロニカ前線での進展の遅れなどが響き、同年12月14日にギヨーマ将軍と交代しました。
予備役編入とシリア赴任
1918年4月6日、サライユは予備役に編入されました。しかし1924年、左翼連合(カルテル・デ・ゴーシュ)が総選挙で勝利すると、同年8月にエリオ政権によって現役復帰を命じられます。そして11月29日、シリアにおけるフランス共和国高等弁務官兼レヴァント軍総司令官に任命されました。
ところが、翌1925年に勃発したドゥルーズ派の反乱(シリア大反乱)に対し、空爆を含む過激な鎮圧手段を用いたことが内外で強い批判を招き、任を解かれて召還されました。これが実質的な軍歴の終わりとなりました。
サライユは1929年3月23日にパリで死去し、遺体は廃兵院(アンヴァリッド)に埋葬されました。
階級の推移
- 少尉(1877年)
- 中尉(1882年)
- 大尉(1887年)
- 大佐(1905年)
- 准将(1908年3月25日)
- 師団将軍(1911年3月27日)
- 師団将軍・定年年齢制限なしで現役続行(1924年8月2日)
- 軍司令官の階級および軍将軍の称号を定年年齢制限なしで現役続行(1924年11月29日)
主な勲章
レジオン・ドヌール(名誉勲章)
- シュヴァリエ(騎士章):1894年12月26日
- オフィシエ(将校章):1907年7月10日
- コマンドゥール(司令官章):1913年12月31日
- グラン・オフィシエ(大将校章):1914年11月20日
- グランクロワ(大十字章):1916年1月11日
その他の勲章
- 軍事勲章(メダイユ・ミリテール):1917年9月5日
- 1914年~1918年従軍十字章(クロワ・ド・ゲール):1915年8月7日