古代の歴史

目標はチュニス――1942年11月、連合軍が挑んだ決死の北アフリカ電撃戦

エル・アラメインの勝利に続く、大胆な奇襲作戦

目標はチュニス――1942年11月、連合軍が挑んだ決死の北アフリカ電撃戦

1942年11月4日、ロンメル将軍の防衛線がエル・アラメインで突破されてわずか4日後、連合軍はモロッコとアルジェリアへの上陸を敢行した。作戦を指揮したのはドワイト・D・アイゼンハワー中将である。彼を待ち受けていたのは、極めて深刻な政治的・軍事的困難だった。部隊の展開は遅々として進まず、フランス領アフリカ軍の態度も依然として不透明だった。

それでも「アイク」ことアイゼンハワーは、自らの戦略目標がチュニスにあることを明確に見抜いていた。チュニジアを一日も早く確保できれば、その分だけ北アフリカの枢軸軍を袋小路へ追い込むことができるからだ。

空挺部隊と機甲部隊による二正面からの急襲

アイゼンハワーの構想はこうだった。まずイギリス空挺兵第1大隊をチュニジアの飛行場へ降下させると同時に、手持ちの全戦力――実際にはごく僅少で、イギリス第78師団所属の歩兵旅団2個と、第17/21ランサー連隊の一部を基幹とする小規模な装甲群――をチュニスへ向けて突進させる。チュニスまでの経路は南北の二本。北回りを第36旅団が、南回りを第11旅団が担当する。砲兵・歩兵・工兵で増強された「ブレード・フォース(剣部隊)」は、途上で空挺部隊との合流を図る。アメリカ装甲部隊も、可能な限り迅速にこの動きに追随する予定だった。

枢軸軍の驚異的な即応力

枢軸軍の最高司令部は完全に不意を突かれた。だが、ドイツ軍ほど、事態が悪化したときにこそ恐ろしくなる軍隊はなかった。アイゼンハワーに匹敵する先見性をもって彼らは理解していた。連合軍の攻勢を食い止めなければ、それはアフリカ軍団の終焉を意味すると。ドイツ軍は装甲部隊と歩兵を急遽かき集め、さらに重要なことに、イタリアから航空部隊を引き抜いた。

11月15日までに、81機の戦闘機がチュニジアの7つの飛行場に配備された。内訳は最新鋭のFw190Aが14機、急降下爆撃機シュトゥーカが28機。そして例によって、南イタリアから増強用の戦闘団(カンプグルッペ)がただちにロンメルのもとへ送り込まれた。こうして編成された部隊の大部分は、装甲師団や空挺部隊出身の練達のベテランたちで構成されており、彼らがイギリス軍先遣部隊の足跡を追うのに長い時間はかからなかった。

散発的な前哨戦――それでも運命を左右した小競り合い

こうして舞台は整った。精鋭部隊の小支隊どうしによる苛烈な小規模戦闘の連続である。ロシア戦線や、のちの西ヨーロッパ戦線の大会戦と比べれば取るに足らない作戦行動だが、それでも将来に対して決定的な帰結をもたらすものとなった。多くの軍事思想家は、この作戦計画の即興的で分断された性格を批判してきた。しかし連合軍にとって、大胆さと速さを発揮できるのは「今しかない」状況だったのだ。

だからこそ戦闘は散発的で孤立したものとなり、やや盲目的に投入された部隊によって遂行されることになった。「組織化された前線など存在せず、広大なアフリカに呑み込まれた少数の部隊があるだけだった」と、当時の責任者の一人は記している。

最初の激突――ジュベル・アビオドの村

最初の本格的な小競り合いは11月17日、チュニスへの南北両アクセス路をつなぐベジャ街道の交差点にある小さな村、ジュベル・アビオドで発生した。

ここに到達した最初の部隊は、クイーンズ・オウン・ロイヤル・ウェスト・ケント連隊第6大隊(伝統的に女王自身が連隊長を務めるケント州の連隊)と、25ポンド砲8門を擁する第360砲兵中隊だった。いずれもテリトリアル(本土防衛義勇)部隊であり、実戦経験には乏しい。その前方では、第56偵察連隊の一部がマトゥール方面へ偵察に出ていた。

偵察隊は西へ移動するドイツ装甲縦隊を発見して報告した。それは指揮官ヴィッツィヒ少佐の名を冠した「ヴィッツィヒ戦闘団」である。歩兵役を務める空挺技術兵の分遣隊に加え、戦車約30輌、装甲車、そして若干の自走砲を含んでいた。ドイツ兵の並外れた規律と徹底して標準化された教育により、互いに全く面識のない異部隊出身の兵士たちが、緊急時に諸兵科連合の戦闘編成へと見事にまとまり上がることができたのだ。彼らの場合、イギリス軍なら同じ状況で常態となるような無駄話や矛盾する命令、説明の必要性といったものは一切存在しなかった。

100ヤードからの砲火

ウェスト・ケントの兵士たちは11月17日の夜明けから陣地の防御態勢を整え始めた。その努力は正午頃、村の大通りへ無警戒に踏み込んできたヴィッツィヒの機械化先遣隊の到来によって報われることになる。ドイツ軍が前進小隊の拠点を通り過ぎた瞬間、側面の入念に選ばれた陣地から、2ポンド対戦車砲が100ヤード以内の至近距離で射撃を開始した。

2発の命中弾で戦車2輌が行動不能となり、街道に沿って伸びきったドイツ軍縦隊は突如、小銃火器の弾雨に見舞われた。だが、危険への反応が攻撃であるような兵士たちを動揺させるには、これほどのことでは足りなかった。III号戦車はほどなくウェスト・ケント陣地のど真ん中へ突入し、50mm砲、2ポンド対戦車砲、25ポンド野砲のあいだで素早く凄惨な決闘が繰り広げられた。戦闘中、行動不能となった戦車から脱出しようとしたドイツ戦車兵40名が、ケント部隊の射撃によって倒されている。

戦闘の第二段階はより古典的な様相を呈した。ドイツ歩兵とトラック隊はなんとか体勢を立て直し、生き残った戦車と迫撃砲が総攻撃に備えてイギリス軍陣地へ体系的な破壊射撃を浴びせ始めたのである。

「トミー」たちの意地

砲兵準備射撃のもとでの耐え難い待機ののち、防御側はドイツ歩兵の再突撃を目の当たりにした。だが彼らは敵をそう容易く近づけさせなかった。貧弱な戦闘員だと誤解されがちだった「トミー」たちの猛烈かつ精確な射撃は、攻撃側を安全圏まで押し戻したのである。堅固に保持されたジュベル・アビオドは、第36旅団の残る2個歩兵大隊と残余の砲兵の到着によってさらに強化された。

この時点では、第36旅団が優位に立てるかに見えた。その進出路は細い一本道で、右手に山並み、両側には低木のマキとコルクガシの森が広がっていた。それにもかかわらず、旅団は東へ30キロ超の突破に成功したのである。

ハイランダーズ、死の罠に落ちる

ところがそのとき、アーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ(スコットランド連隊)第8大隊が致命的な罠に落ちた。お得意の手口で、ドイツ軍は道路を挟んだ二つの丘を選び、構築しつつあった防御体系の主要前哨としていた。丘にはジュベル・アザグとジュベル・アジュレドという名があった。だが、この部隊の悲しい戦史の中では、二つの丘は「緑の丘」と「禿げ丘」として歴史に刻まれることになる。

敵に抑えられていることを知らないハイランダーズは、車両とともに二つの丘のあいだへ浸透を開始した。待ち伏せが始まると、損害は将校10名、兵員145名、さらに重装備のほとんどに及んだ。