コタバル沖に停泊する滝部隊
コタバルに接近した部隊は、いうまでもなく「滝部隊」であった。同部隊の記録によれば、到着は午後11時。「コタバル付近に小さな漁村が見え、その灯りがまだ輝いていた。土曜の夜だから、敵は酒を飲んで踊りでもしているのだろうと思った」という。
午後11時40分、船団は錨を下ろした。しかし指揮官にとって不幸なことに、その位置は予定地点から約2キロもずれていた。海岸沿いを南へ流れる海流に流されたのである。こうして船団は、敵陣地のほぼ正面に停泊することになってしまった。
限界に達した波
「真夜中、楕円形の月の青白い光が東の海から昇った。強い風が吹き、無線のアンテナを鳴らす音が聞こえた。波はすでに2メートルに達していた」と滝本は書き残している。この最後の点は重要である。専門家の分析によれば、この程度の波高は上陸作戦が耐えられる限界であり、風がさらに強まれば、日本軍は文字通り破滅へ向かうところだったのだ。実際、それが危うく起こるところであった。
上陸用舟艇の進水は極めて困難であった。ようやく進水した舟艇は激しく揺れ、母船から離れたかと思うと、また押し戻されてきた。押しつぶされることを恐れた兵士たちは、闇の中で叫び声を上げた。再び滝本の言葉を借りれば、「彼らは救命胴衣、小銃、軽機関銃、各種の武器や装備で身動きが取れなかった。舟艇に飛び込むのは困難で、そこで居場所を確保するのはもっと困難だった。時折、兵士が悲鳴とともに海に落ち、工兵たちがそれを引き上げた」。
第一波の苦闘と「ヤシの木の赤信号」
第一陣が舟艇に乗り込むまでには1時間以上を要した。第56連隊長・那須大佐もこれに加わり、滝本に敬礼すると、自らの舟艇で岸へ向かうよう命じた。時刻は午前1時。他の輸送船でも準備が整ったとの報告を受けると、滝本は通信兵に青色灯火を発させた。これは「受信せり」の合図である。そして「上陸用舟艇は四列縦隊で海岸へ向かった」と滝本は付け加える。「エンジンの音が聞こえていた。10分、20分が過ぎた……私は次第に不安になった。ついに、浜辺のヤシの木の間で赤い信号が二度明滅した。続いて七、八カ所から小銃射撃が始まり、次いで砲撃が加わった。敵は相当な兵力で待ち構えているようだった」。
空襲と旗艦・淡路山丸の喪失
第二波を運ぶため、上陸用舟艇は母船へ戻らねばならなかったが、なかなか姿を見せないため、滝本は何事が起きたのかと気をもみ始めた。午前2時少し前、イギリス空軍(R.A.F.)が現れて船団を爆撃した。滝本の幕僚船である淡路山丸は第二船倉に爆弾を受けて50名が戦死し、火災が発生した。そして午前2時5分、ようやく舟艇が戻り、那須大佐からの報告が届いた。「午前1時30分、上陸成功。ただし多くの障害に遭遇。第二波を送れ」。
滝本は必要な命令を下したが、直ちに海軍護衛隊の指揮官から呼び出された。イギリス空軍の出現に警戒を強めた同指揮官は、上陸を中止して洋上へ退避するよう求めたのだ。滝本はこれを拒否した。第三波となる最終波は午前6時頃に出発する予定であり、それまでは危険を冒すしかないと判断したのである。海軍側はしぶしぶ残留に同意した。だが話し合いの末、滝本は淡路山丸を放棄しなければならないことを知らされ、急いで司令部を一艘のボートへ移した。離れる際、彼は同船が船首から船尾まで炎に包まれるのを目撃した。
別の人間であれば、神々が自分に敵対していると思い、運命に屈したかもしれない。しかし滝本はひるまず、ボートに岸へ直進するよう命じた。そこで彼は、かなり手荒な歓迎を受けることとなった。「敵陣地まで約100メートルしかなく、陣地を囲む有刺鉄線が見えた。敵の銃口はこちらにまっすぐ向けられていた」。
決死の前進命令
他の舟艇が、防御陣地のすぐ下というより危険な海域に着岸していたのも、滝本には見て取れた。機関銃弾が兵士たちをまとめて薙ぎ倒した。海は荒れ、水中に落ちた者たちは、イギリス軍の砲火の下を這って陸へ辿り着こうとした。「浜全体が大混乱に陥っていた」と滝本は続ける。「しかし指揮官は、ここにとどまれば最後の一人まで殺されると悟り、前進を命じた。将校たちが突撃し、兵士たちがそれに続いた。こうして部隊は敵陣地を迂回し始め、有刺鉄線の下の砂を掘り始めた。手榴弾も投げ込まれた」。