散開した防衛計画
マレー=ライオン少将の当初の計画では、第15旅団を道路沿いに配置し、左翼を第6旅団が支援、第28旅団を予備として温存するはずだった。しかし彼はあらゆる接近路をカバーしようと無謀にも部隊を分散させてしまった。第15旅団だけで、ジャングル、水田、ゴム園が入り混じる6キロに及ぶ正面を守らねばならず、第6旅団の任務はさらに過酷で、その行動範囲は海岸まで17キロに及んだ。両旅団は互いに支援し合える距離になかった。こうしてマレー=ライオンは、戦いの始まる前に予備兵力を失うことになった。
チャンルンでの初戦
ジトラ北方の防衛を担ったのは、第15旅団所属の第1/14パンジャーブ連隊であり、12月10日の夕刻までにチャンルンに陣地を築いていた。翌日午前8時、同連隊は十輌の戦車を伴った佐伯中佐の偵察部隊による攻撃を受けた。日本軍がイギリス軍の複数の陣地を突破すると、ギャレット将軍は大隊をジトラ北方2キロのナンカにある中間陣地へ後退させ、翌朝まで持ちこたえる方針を固めた。ところが豪雨の中、佐伯は戦車と機械化歩兵による追撃を敢行し、退却する敵に追いついてこれを完全に撃ち破った。
無人の砲列――日英の証言の隔たり
この壊走について、イギリス側の説明は「第2対戦車砲中隊の砲弾が尽きていた」というものだった。一方、日本側の証言はるかに辛辣である。戦闘のただ中にいた辻政信はこう記している。「十門の砲が砲口を我々に向けたまま道路沿いに並んでいたが、その近くには誰一人いなかった。敵は暴風雨を避けてゴムの木の下に身を潜めているようだった。……そして彼らは壊滅的な敗北を喫した……」。
グルカ大隊の壊滅と最後の予備の喪失
パンジャーブ部隊が無力化されると、日本軍は第2/1グルカ連隊に対して正面と側面から同時に攻撃を仕掛け、まもなくこれを小さな孤立集団へと切り分けた。第1/14パンジャーブ連隊と同様、この大隊もまもなく戦闘単位として機能しなくなった。この窮地にマレー=ライオンは、カーペンデール将軍の指揮下にある第28旅団のもう一つの大隊を投入せざるを得なくなり、最後の予備までも失ってしまった。
夜間攻撃と指揮官の動揺
日没後、佐伯はオットー少尉率いる偵察班を送り出し、イギリス軍右翼に展開する第2/9ジャート連隊の陣地を偵察させた。オットーはほどなく戻り、「各中隊は有刺鉄線の背後に塹壕を掘って防御しているが、前方陣地には隙間があり、敵は今もそれを埋め続けているようだ」と報告した。そして夜間攻撃は十分可能だと判断したのである。
佐伯はこの助言を採り入れ、午後8時30分に攻撃を開始した。しかしイギリス軍の反撃は予想以上に激しく、攻撃は一時的に足止めされた。日本軍は予備中隊を投入したが、これもまた失敗に終わった。この失敗に激怒した佐伯は、敵陣への決死の突撃によって自ら命を絶つ意向さえ表明したが、上級将校がなんとか思いとどまらせた。指揮官たちの優柔不断を察知した兵士たちの間には、静かな動揺の波が広がり始めていた。