古代の歴史

カッシーノの戦い:古典的砲撃戦術に対する空挺兵たちの鉄壁の抵抗

220日の戦闘を経ても衰えぬ火力

220日間に及ぶ中断なき戦闘で疲弊しながらも、ドイツ第1空挺師団は依然として高い火力を維持していた。この火力こそが、3月15日に始まるカッシーノの戦い第二段階において、その真価を発揮することになる。

第一次大戦型の物量攻勢と、ソンムの再来

この段階で連合軍は、それまでの失敗をすべて総括する形となり、第一次世界大戦型の古典的な砲撃戦術へと回帰した。その結果は、1916年のソンムの戦いとまったく同じものであった。突撃部隊の兵士たちは自分の目を疑いながらも、生存していた守備隊が依然として陣地を保持し、その火力もまったく衰えていないことを確認したのである。

3月15日:地中海戦域最大級の空爆

3月15日、ハイドリヒ率いる空挺部隊は、地中海戦域において連合軍がこれまでに実施した中で最大規模となる空襲を受けた。戦闘爆撃機および中型・大型爆撃機計750機が、約1,650メートル×550メートルの範囲に1,250トンの爆弾を投下したのである。この航空攻撃に続き、746門の砲が約20万発の砲弾を浴びせかけた。

第3空挺連隊第2大隊のうち、無傷で残っていたのはわずか1個中隊のみ。彼らは瓦礫の山の中からニュージーランド部隊の攻撃を迎え撃った。しかしこの時、攻撃側は修道院の廃墟に到達することはできず、山頂はドイツ軍の手に残された。

瓦礫の市街における凄惨な接近戦

破壊し尽くされた市街での戦闘は凄惨を極めた。それは、地下室と崩れかけた壁の間で繰り広げられる、さながら原始人のような地下壕戦であった。市街の掃討に執着するあまり、フレイバーグ将軍はモンテ・カッシーノ自体を軽視し続けた。1週間の戦闘の末、市街の大部分は連合軍の手に落ちたものの、完全に封鎖された6号線を通って突破口を開くことは、もはや不可能となっていた。

損害50%を超えても貫いた意志――反撃による幕切れ

ドイツ軍の前線は依然として健在であった。そこでアレクサンダー司令官は22日、新たな総攻撃を命じた。最前線に立つ空挺兵たちの被害は甚大であった。各中隊は文字通り壊滅状態にあり、わずかな増援も夜間にしか前線へ届かなかった。しかし、損害率がほぼ50パーセント(第3空挺連隊第2大隊ではそれ以上)に達しても、空挺兵たちは陣地を守り抜いただけでなかった。彼らはロッカ・ヤヌラとカッシーノ市街を奪回する反撃を仕掛け、これによって第二次カッシーノの戦いに自ら幕を引いたのである。

小康期と「ストラングル作戦」の失敗

第二次の小康状態(3月23日~5月11日)には、カッシーノとアンツィオの両方面でドイツ軍の再配置・増強を遮断しようとした連合軍の航空攻勢「ストラングル作戦」が失敗に終わった。この間、第4空挺連隊がカッシーノ市街と修道院地区の防衛を引き継いだ。

信じがたいことに、ハイドリヒの師団は兵力の3分の1を削られ、フランスで新たに編成される部隊の基幹要員として転用された。これにより第1空挺師団は、各連隊の大隊が平均200~300名しか擁しない、骨格のみの状態にまで縮小された。しかし、対戦車砲兵と野戦砲兵の戦力には変更がなく、師団全体の火力は終始高い水準を保ち続けたのである。