はじめに
中国近代史を学ぶ上で頻出するテーマが「義和団の乱」と「孫文(孫中山)」です。本記事では、「この二つに最も密接な関係があるものは何か」という問いを、歴史的背景から紐解いていきます。
義和団の乱とは
義和団の乱は、1899年から1901年にかけて中国で起こった排外主義的・反キリスト教的な武装闘争です。「扶清滅洋」(清を助け、西洋人を滅ぼす)を掲げた義和団と呼ばれる民衆組織が中心となり、外国人や中国人キリスト教徒への襲撃が相次ぎました。
清朝の西太后は当初これを黙認したため、事態は八カ国連合軍の介入を招き、北京が占領される事態にまで発展します。1901年の北京議定書(辛丑条約)の締結により、中国は巨額の賠償金負担と列強による軍事的支配を受け入れざるを得なくなり、半植民地化が決定的となりました。
孫文(孫中山)とは
孫文は、中華民国および中国国民党(KMT)の創設者であり、近代中国史において最も重要な人物の一人とされています。清朝打倒と共和制国家の建設を目指す革命運動の指導者として「興中会」や「同盟会」を組織し、1911年の辛亥革命の思想的・組織的基盤を築きました。
両者に最も密接な関係があるもの
義和団の乱と孫文の活動をつなぐ鍵となるのは、「反帝国主義の気運と民族意識の高揚」です。
義和団の乱は、列強の侵略に対する民衆レベルの抵抗運動でしたが、その敗北は清朝の無力さを露呈させる結果となりました。この衝撃により、救国の道を改革ではなく革命に求める人々が急増し、孫文が掲げる革命思想――後に「三民主義」(民族・民権・民生)へと体系化される理念――への支持が大きく広がっていったのです。
つまり、義和団の乱後の深刻的な民族的危機こそが、孫文の革命運動が全国に浸透する土壌となりました。したがって、両者に最も密接な関係があるのは「中国における民族主義の覚醒と、反帝・反清の潮流の形成」であると言えます。
まとめ
義和団の乱は排外的な民衆運動として失敗に終わりましたが、その影響で清朝の権威は決定的に損なわれ、孫文率いる革命勢力の台頭を促すことになりました。両者は形こそ異なるものの、帝国主義に抗する中国の民族意識という共通の根を持っているのです。