第二次世界大戦のイタリア戦線において、グスタフ・ライン防衛線の要衝として連合軍の進撃を阻んだモンテ・カッシーノ。1944年2月、連合軍は同地のベネディクト会修道院に対して大規模な空爆を実施したが、その結果は期待外れに終わるどころか、守備側のドイツ落下傘兵に絶好の防御拠点を提供することとなった。ここでは、第一次カッシーノ攻防戦後半の経緯と、ハイドリヒ師団の組織について詳しく見ていく。
爆撃が残したもの
修道院への猛爆撃は、確かにモンテ・カッシーノのドイツ守備隊を震撼させた。しかし、その直後に本格的な地上攻撃が続くことはなかった。爆撃がもたらした最も明白な結果は、歴史ある修道院を広大な瓦礫とクレーターの荒れ果てた地形へと変えてしまったことである。
皮肉なことに、分厚い外壁のかなりの部分は無傷のまま残存した。これは防御側にとって理想的な状況を生み出した。軽・重自動火器を大量に装備していた落下傘兵にとって、廃墟と化した修道院はまさにうってつけの要塞となったのである。
勇み足の攻撃、容易に撃退される
落下傘兵たちは、2月16日と17日に敢行された攻撃を容易に撃退した。この攻撃は勇敢さにあふれていたものの、決定的な戦力を欠いていた。ニュージーランド軍を率いたバーナード・フライバーグ中将は、爆撃完了後なんと18時間も攻撃を開始せず、しかも配下24個大隊のうちわずか6個大隊を投入するにとどめたのである。
そして18日、イタリア方面連合軍総司令官ハロルド・アレグザンダー将軍は攻撃の停止を命じた。今度こそ「名に恥じぬ」徹底した砲爆撃の後に行われる新たな強襲に向けた準備のためである。
静寂の中で固められた防衛線
こうして訪れた一時的な小康状態は、リヒャルト・ハイドリヒ中将率いる第1落下傘師団にとって格好の好機となった。同師団は正面13kmに及ぶ担当区域での配置を完了し、夜間の闇を最大限に活用して、堅牢な防御陣地を築き上げていった。
各連隊の担当区域
ルートヴィヒ・ハイルマン大佐の第3落下傘連隊は、第3装甲擲弾兵師団第8連隊の第2大隊によって増強され、カッシーノ市街、北東のロッカ・ヤヌラ、そしてモンテ・カッシーノ本体の防衛責任を引き受けた。グラスメール指揮官率いる第4落下傘連隊は「騎兵の丘」とコッレ・サンタンジェロの防御を担当し、カール=ロタール・シュルツの第1落下傘連隊は、さらに北西の地域に布陣した。
第1落下3>第1落下傘師団の編制
師団の中核は、無線中隊と電話中隊の各1個からなる第1落下傘偵察大隊、ならびに第1・第3・第4落下傘連隊であった。各連隊は3個歩兵大隊を基幹とし、工兵中隊、自転車中隊、迫撃砲中隊、対戦車中隊の支援を受けた。さらに歩兵大隊は、3個小銃中隊と1個機関銃中隊で編成されていた。
加えて、師団には以下の支援部隊が属していた。
- 第1落下傘砲兵連隊:75mm山砲3個中隊と105mm軽榴弾砲3個中隊
- 第1落下傘工兵大隊:工兵3個中隊と機関銃1個中隊
- 第1落下傘対戦車大隊:75mm牽引式対戦車砲4個中隊と75mm自走対戦車砲1個中隊
- 第1落下傘機関銃大隊:3個中隊編成
- 落下傘衛生部隊:2個中隊編成