フィリップ・フランソワ・マリー・ド・オートクロック伯爵、通称フィリップ・ルクレール(1902年11月22日 - 1947年11月28日)は、フランスの軍人、レジスタンス指導者、そしてフランス元帥。第二次世界大戦において自由フランス軍を率い、パリとストラスブールの解放を成し遂げた「解放の英雄」として知られる。
生い立ちと初期の軍歴
1902年、ピカルディ地方の名門貴族オートクロック家に生まれる。サン=シール陸軍士官学校(メス・ストラスブール期)を首席で卒業し、騎兵科へ進む。ソミュール騎兵応用学校でも首席を収め、若くしてエリート将校としての道を歩み始めた。
1925年、マリー=テレーズ・ド・ガルガンと結婚し、4男2女をもうける。初期の勤務はラインラント占領軍(第5キュイラッシエ連隊)、次いでモロッコの第8アルジェリア・スパイ連隊に配属され、リーフ戦争での「平定」作戦に従軍。複数の馬を撃たれ落馬し、足首に生涯残る負傷を負いながらも武功を立て、レジオン・ドヌール勲章を受章した。
1931年からサン=シールで教官を務め、1938年には高等戦争学院(現国防大学院)を首席で修了。参謀将校としての資質を磨いた。
第二次世界大戦:敗北から解放へ
1939-1940年:フランス戦役と二度の脱走
1940年5月、第4歩兵師団参謀長としてベルギー前線に布陣。ドイツ軍の電撃戦で捕虜となるが、診断書を偽装し「徴兵免除」を装って脱走に成功。再び戦線に復帰するも、シャンパーニュ平原の反撃戦で建物倒壌により頭部負傷、再び捕虜となる。しかし6月17日、再び脱走に成功。自転車で占領下のフランスを縦断し、ピレネー山脈を越えてスペイン、ポルトガル経由でロンドンへ渡った。
1940-1942年:アフリカでの闘いと「クーフラの誓い」
7月25日、ド・ゴール将軍に謁見。家族への報復を避けるため母方の姓「ルクレール」を偽名とし、大尉から一挙に少佐へ昇進。フランス赤道アフリカの自由フランスへの帰順を命じられる。
カメルーン、チャド、コンゴを次々と自由フランス側に引き込み、ガボンでもヴィシー政権派を排除。チャド軍事司令官として、イタリア領リビアのクーフラオアシスをわずか300名と榴弾砲1門で陥落させ(1941年2月)、部下とともに「ストラスブール大聖堂に三色旗が翻るまで武器を置かない」と誓った(クーフラの誓い)。その後、リビア戦線、チュニジア攻略戦(L部隊)で連合軍の勝利に貢献した。
1943-1945年:ノルマンディーからベルヒテスガーデンへ
アメリカ製装備で再編された第2機甲師団(第2DB)を率い、1944年8月1日ノルマンディー上陸。パットン第3軍隷下でアルンション解放、エクーヴ森林戦を経て、上層部の反対を押し切りパリへ急行。8月25日、モンパルナス駅でフォン・コルティッツ将軍の降伏を受け、パリを解放。ド・ゴールとともにシャンゼリゼを行進した。
同年11月23日、ストラスブールを解放しクーフラの誓いを果たす。終戦直前にはヒトラーの鷲の巣(ケールシュタインハウス)を制圧。1945年9月2日、ミズーリ号艦上で日本の降伏文書にフランス代表として署名した。
戦後のインドシナと悲劇の最期
極東遠征軍司令官としてインドシナに赴任。ホー・チ・ミンと会談し政治的解決を模索するも、コーチシナと南アンナムのフランス主権回復に努めた。1946年、北アフリカ陸海空軍総監に任命される。
1947年11月28日、視察任務中のB-25輸送機がアルジェリアのコロンブ・ベシャール付近で砂嵐に遭遇、鉄道路線に激突し搭乗者12名全員が即死した。享年45歳。国家葬の後、アンヴァリッド廟に葬られ、1952年没後元帥に列せられた。
死の真相をめぐる論争
事故死を不審視し、イギリスによる暗殺説(フェッザンの石油利権を巡る対立)を唱える声(コンラート・キリアンら)があったが、証拠はない。近年の研究(ジャン=クリストフ・ノタンら)では、客室改造による重心変化で低空飛行中に失速したとする説が有力視されている。
逸話:機転と大胆さの人
- 捕虜脱走の機転: 1940年5月、ドイツ将校にマラリア治療のキニーネ処方箋を見せ「兵役不適格」を装い釈放させた。
- 単身ロンドンへの逃避行: 自転車、列車、徒歩で占領下フランスを縦断、ピレネー越えでスペインへ脱出。
- 大佐への「自作自演」昇進: カメルーンで中佐の指揮官より上位に立つ必要から、袖章を自分で付け替え大佐を名乗り、ド・ゴールに「説得と権威のため」と弁解して事後承認を得た。
栄誉と遺産
- フランス全国にその名を冠した道路・施設が多数存在する。
- フランス陸軍の主力戦車「ルクレール」にその名が受け継がれている。
- 「ルクレール元帥財団」(初代理事長フィリップ・ペショ中佐)がその記憶を継承。
- 直系子孫のみが「ルクレール・ド・オートクロック」姓を名乗ることを公式に認められている。
主な叙勲
- レジオン・ドヌール勲章グランクロワ(大十字章)
- 解放の同志(コンパニオン・ド・ラ・リベラシオン)
- 軍事勲章
- 1939-1945年戦争十字章(陸軍公式通報8回)
- 海外作戦戦争十字章
- レジスタンス勲章ロゼット付
- 殊勲章(イギリス)、シルバースター章(アメリカ)ほか多数
主な経歴・年譜
| 1924.9.9 | 少尉任官(サン=シール卒業・首席)、第24竜騎兵連隊配属 |
| 1926.10.26 | 中尉昇進、第8アルジェリア・スパイ連隊 |
| 1934.12.25 | 大尉昇進 |
| 1939 | 参謀資格取得(第60期) |
| 1940.6.17 | 再脱走、自由フランス参加決意 |
| 1940.7.25 | ロンドンでド・ゴールと会見、少佐昇進・偽名「ルクレール」使用開始 |
| 1940.8.27 | カメルーン帰順工作成功 |
| 1940.11.25 | 大佐に自任(後日ド・ゴールが承認)、チャド軍司令官 |
| 1941.2.28 | クーフラ占領、「クーフラの誓い」 |
| 1941.8.10 | 准将(暫定) |
| 1942.4.14 | 准将(正式) |
| 1943.5.25 | 少将昇進、第2自由フランス師団長 |
| 1943.9.1 | 第2機甲師団(第2DB)長 |
| 1944.8.25 | パリ解放、フォン・コルティッツ将軍降伏受諾 |
| 1944.11.23 | ストラスブール解放 |
| 1945.2.20 | 第3軍団長 |
| 1945.5.25 | 中将昇進 |
| 1945.9.2 | ミズーリ号上で日本降伏文書署名 |
| 1946.7.14 | 大将昇進 |
| 1947.4.12 | 北アフリカ陸海空軍総監 |
| 1947.11.28 | コロンブ・ベシャールにて飛行機事故で殉職 |
| 1952.8.23 | 没後フランス元帥に列す |