
ノーベル賞受賞者を輩出していながら、その人物を自国が受け入れられない——パキスタンが抱える矛盾と政治的混乱を、いくつかの重要な出来事から見ていきます。
ノーベル賞受賞者に居場所のない国
パキスタン建国の1947年から本書の執筆時点である2019年までの間に、パキスタン国籍を持つままノーベル賞を受賞したのは、わずか2人しかいません。一人は物理学者のアブドゥス・サラーム博士、もう一人はスワート地方の都市ミンゴーラ出身のマララ・ユスフザイさんです。
アブドゥス・サラーム博士は1979年に物理学賞を受賞しましたが、アフマディーヤ派のムスリムでした。パキスタンでは1974年以降、アフマディーヤ派は憲法上「非ムスリム」と分類され、博士は事実上、自国から排除される存在となりました。一方のマララ・ユスフザイさんは、女子教育を訴えたことでターリバーンの武装勢力に命を狙われ、2012年には銃撃されて重傷を負いました。それでも2014年、史上最年少の17歳でノーベル平和賞を受賞しています。国家の名誉であるはずのノーベル賞受賞者が、自国で受け入れられず、あるいは命まで脅かされる——そんな皮肉な現実がパキスタンにはあるのです。
オサマ・ビンラディンに「隠れ家」を提供した国
パキスタンは、テロリストの避難先として世界的に悪名高い国となりました。2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ(9.11)の首謀者とされるオサマ・ビンラディンは、パキスタン北部の都市アボッターバードにかくまわれていました。ビンラディンがパキスタン国内に潜伏しているとの疑いが強まるにつれ、パキスタン政府は「ビンラディンは国内にいない」と繰り返し主張し、事実を頑なに否定し続けました。
しかし2011年5月2日深夜、アメリカの特殊部隊がヘリコプターでパキスタン領空に侵入。「ネプチューン・スピア作戦」と呼ばれる急襲作戦によってビンラディンを殺害し、遺体は海の誰も知らない場所に水葬されました。この一件をきっかけに米パ関係には深刻な亀裂が走り、パキスタンは安全保障面でアメリカに代わって中国との結びつきを強めていくことになります。
「メモゲート」事件が露呈させた軍と政権の対立
ビンラディン殺害後、パキスタン軍と文民政権の間の不信感は一気に深まりました。それを決定的に裏付けたのが、いわゆる「メモゲート」事件です。
アメリカによるビンラディン殺害の後、当時の大統領アシフ・アリー・ザルダリは、パキスタン国内で軍事クーデターが起こるのではないかと恐れていました。そこでザルダリ大統領は、当時のアメリカ大統領バラク・フセイン・オバマに対し、パキスタン陸軍参謀長アシュファク・ペルヴェーズ・カヤニ将軍にクーデターなどの行動を取らせないよう要請する秘密の覚書を送ったのです。この覚書には駐米パキスタン大使フセイン・ハッカーニの関与が疑われ、事件が発覚すると、ハッカーニ大使は辞任に追い込まれました。
「不誠実」の烙印を押されたギラニ首相
ザルダリ大統領やシード・ユースフ・ラザー・ギラニ首相をはじめ、当時のパキスタンでは多くの政治家や政府高官が、裁判所で汚職事件の渦中に置かれていました。2011年、パキスタン政府は「国民和解命令(NRO)」を適用し、約8,000件に及ぶ汚職事件を一挙に取り消そうとしました。
これに対しパキスタン最高裁判所は、国家説明責任局(NAB)に対し、これらの汚職事件をやり直すよう命じます。さらに5人判事からなる最高裁の合議体は、ギラニ首相に対して痛烈な批判を展開し、「ギラニの誠実さには疑問符が付く。就任時に誓った公務員としての誓約を守っていない」と断じました。最高裁の厳しい見解を受けて、パキスタン軍とISI(パキスタン三軍情報局)は、ギラニとザルダリ両氏への圧力を強めていきます。
陸軍参謀長のカヤニ将軍は政府に対し、「メモゲート問題をめぐり、首相が私やISI長官に対して行った『重大な』発言は、国家にとって極めて深刻な問題だ」と警告しました。これに対し政府は、陸軍参謀長に近いと目されていた国防長官ハリド・ナイーム・ローディー退役中将を罷免し、軍と政権の対立はさらに先鋭化します。
2012年4月26日、パキスタン最高裁判所は、ザルダリ大統領の汚職事件の再調査を求める書簡をスイス当局宛てに提出するよう命じられたのに従わなかったとして、ギラニ首相を法廷侮辱罪で有罪としました。続く同年6月19日、最高裁判所はギラニに首相職の続投資格がないと判断し、事実上失脚させます。その後、イムラン・カーン政権下のパキスタンは、ギラニの国外出国を禁止する措置を取りました。