古代の歴史

ジンナーのパキスタン vs パキスタンのジンナー──建国の父が見せたもう一つの顔

ジンナーのパキスタン vs パキスタンのジンナー──建国の父が見せたもう一つの顔

1947年8月、パキスタンは独立を果たし、ムハンマド・アリー・ジンナーは初代総督として新生国家の頂点に立った。しかし、夢の国家が現実となったとき、そこにいたのは、かつての「偉大な指導者」とは少し違う表情を見せるジンナーだった。

権力を一瞬たりとも手放さなかった男

パキスタン建国後、ジンナーは人目を避けるようになり、気分も不安定になったと伝えられる。国家の最高権限から些細な決定に至るまで、すべてを自らの手に握っていたのだ。彼の副官を務めたバーニー大佐は、日記にこう記している。

「ジンナーの状態は、何らかの奇跡によって月を手に入れてしまった子供のようだった。そして今や、一瞬たりともそれを手放そうとはしない。」

「……そのため、インドから逃れてパキスタンへたどり着いた職員たちの給与は削られた。あれほど誇り高い人物であるジンナーが、耐えることを余儀なくされた屈辱であった。」

「……パキスタン建国後、ジンナー政権は難民輸送のため、英国海外航空公社(BOAC)から航空機をチャーターした。ところが、公社への支払いのために政府が発行した小切手は不渡りとなった。口座にそれだけの金額が残っていなかったのだ。」

選挙で選ばれた州政府への介入

1947年、新首相と内閣が就任宣誓を行ってからわずか1週間後。国民がラマダン明け最初のイード・アル=フィトルを祝っていたさなか、ジンナーは住民投票という手法によって、北西辺境州の選挙で選ばれた政府を崩壊させた。同州の州首相カーン博士は十分な多数派を擁していたが、ジンナーは自らの党による政権をそこに樹立させたのである。

しかし、この新政権は州議会での信任投票を勝ち取ることができなかった。そこでジンナーは、解任された議員たちを次々と逮捕させ、人為的な多数派をつくり上げた。その9か月後には、今度は自らの政党が政権を担っていたシンド州の政府をも倒す。さらにジンナーは、パンジャーブ州における政府転覆の動きにも乗り出していった。

インドをめぐるジンナーの二つの顔

かつてヒンドゥー教徒とムスリムの融和の使者と見なされたムハンマド・アリー・ジンナーは、その生涯のエネルギーのほとんどをパキスタンの獲得に捧げた。パキスタンが建国されたのは、ひとえに彼の存在があったからだ。だが建国後のジンナーは、パキスタンとの友好関係を築こうとしないインドを公然と非難するようになっていく。

建国から7か月後、ジンナーは駐パキスタン米国大使ポール・アリングに対し、こう語った。インドとパキスタンの間にも、米国とカナダの間のような協力関係が生まれることを望んでいる、と。

アリングはワシントンへ送った外交電報の中で、ジンナーがインドとの間で「確定した国境を持たない」軍事レベルの防衛パートナーシップについて話し合ったと記録している。それは米国とカナダの関係に似た構想だった。両隣国の間にはほとんど警備のない国境が広がり、軍事面での協力体制が敷かれ、自由貿易が行われ、互いの領土へ複数のルートから自由に出入りできる——そんな未来像が、ジンナーの頭の中には描かれていたのである。