エビアン協定の背景
1954年、アルジェリア戦争が勃発しました。しかし第二次世界大戦の終結以来進んできた脱植民地化の流れを前に、戦争が激化するなかで、歴代フランス政府は有効な対応を打ち出せずにいました。1958年、シャルル・ド・ゴールが政権に復帰し、アルジェリアに一定の自治権を与える方針を提示しますが、独立そのものは認めようとしませんでした。
軍事的にはフランスが有利な局面を作れても、政治的な決着は見通せない状況でした。アルジェリア側は独立を求めて活発な運動を展開し、フランス国内でも世論は独立容認へと傾いていました。各地でのデモ行動、偽造書類を携えて独立派を支援する「スーツケース運び」たちの活動、さらにはサルトルら知識人が署名した「121人の宣言」などが、その証左といえます。
調印の日――1962年3月18日

主要人物
- シャルル・ド・ゴール
- モーリス・オダン
- モーリス・シャル
エビアン協定の内容
エビアン協定は、フランス政府とアルジェリア民族解放戦線(FLN)との間で締結され、アルジェリア戦争に正式な終止符を打ちました。協定は複数の宣言から構成されています。まず基本となる宣言では、住民投票を実施したうえで、独立したアルジェリア国家を樹立することが定められました。加えて経済分野に関する二つの宣言では、両国間の経済協力が盛り込まれ、フランスはとりわけサハラ地下の豊かな資源へのアクセス権と、核実験の実施継続を確保しようとしました。
協定は、アルジェリアに暮らすフランス人の地位についても取り決めています。彼らは引き続きアルジェリア領内に居住できることになりました。その見返りとしてフランスは、アルジェリアをフラン圏に留め置いて両国間の交易を円滑化すること、技術援助を提供すること、そして移行期の安定のため教育関係者や行政職員の派遣を続けることを約束しました。
エビアン協定の結果と影響
- 長期にわたる交渉と双方の大きな譲歩の末に成立したエビアン協定を受け、翌日の1962年3月19日に停戦が発効しました。さらに同年7月1日に行われた住民投票では、アルジェリア国民の99.7%が独立を支持しました。
- 一方、秘密軍事組織(OAS)は停戦の枠組みを拒否し、アルジェリア国内で一連のテロ攻撃を仕掛けました。これに伴って大規模な人口移動が始まり、ピエ・ノワール(アルジェリア出身のフランス人)やハーキ(独立に反対したアルジェリア人)がフランス本土への帰還を目指すことになりました。
- アルジェリア戦争は極めて暴力的で犠牲の大きい紛争であり、アルジェリア側の犠牲者は約25万人に上り、その多くは一般市民でした。モーリス・オダン事件、1961年10月のデモ弾圧、1962年2月のシャロンヌ駅事件などは、フランス当局による拷問や抑圧の実態を今に伝えています。武力衝突の終結後も、共通の歴史で結ばれた両国の間では記憶をめぐる対立が色濃く残り続けています。