
フォントヴロー修道院(メーヌ=エ=ロワール県)にあるアリエノール・ダキテーヌ(奥はアンリ2世)の彩色石膏製横臥像 出典:WIKIMEDIA COMMONS
中世において最も波乱に満ちた人生を歩んだ女性の一人、アリエノール・ダキテーヌ(アキテーヌのエレノア)。その驚異的な生涯と、彼女が浴びせられた数々の中傷は、当時の女性たちの置かれた境遇を雄弁に物語っています。
彼女の正確な出生日は分かっていません。1122年頃とされるのみです。男子の相続人が待ち望まれる大貴族の家では、娘の誕生はさほど重要視されなかったためです。しかし父アキテーヌ公ギヨーム10世には、息子に頼らざるを得ない事態が訪れます。若き後継者ギヨーム・エグレが1130年に夭逝し、その後男子は生まれなかったのです。
アリエノールがアキテーヌ公国を継承する可能性が高まるにつれ、彼女の教育には手厚い配慮が払われました。読み書き、ラテン語、音楽、狩猟、乗馬……。15歳で孤児となった彼女は、父の宗主であるフランス王の後見下に置かれ、王はただちに自らの息子ルイとの結婚を取り決めます。これほどの重要性を持つ女子相続人を、誰彼構わず嫁がせるわけにはいかないからです。こうして広大で豊かなアキテーヌは、フランス王国の手に収まることになりました。
女王としての生涯
ここから、夫に男子を授かることが最大の課題となる女王の生活が始まります。結婚直後に即位した夫ルイ7世に対し、アリエノールが産んだのはマリーとアリックスの二人の娘だけ。しかし夫は彼女を深く愛しており、あまりにも妻と親密なため、宮廷や諸侯の嘲笑の的となるほどでした。「真の男たるもの、妻に主導されてはならない」というわけです。
アリエノールはたちまち「危険な女」の評判を得ることになります。知能が高すぎる、美しすぎる、才能がありすぎる、情熱的すぎる。彼女は聖書のイヴ、原罪をもたらした誘惑者の化身とみなされたのです。
言うなれば、家門の評判が先回りしていたともいえます。祖母ダンジュルーズは、その魅力ゆえに「危険な女」とあだ名され、シャテルロー子爵との間に5人の子をもうけながら夫のもとを去り、アキテーヌ公ギヨーム9世の愛人となりました。このギヨーム9世こそアリエノールの父方の祖父にあたり、醜聞は甚だしいものでした。ダンジュルーズは、実の娘の義父を誘惑したことになるのです。
このトルバドゥールである祖父から、アリエノールは芸術への嗜好を受け継ぎ、それをフランスの宮廷にもたらしました。歌、舞踏、文学は、すべて典雅な愛「フィナモール(fin'amor)」に捧げられたのです。よそ者とみなして非難する周囲とは対照的に、夫ルイ7世はむしろ彼女をいっそう愛しました。そのため第2回十字軍の遠征に際し、アリエノールが同行を申し出ると、王はこれを受け入れてしまいます。王の弱さは、万人の目にいっそう露呈することとなりました。
黒い伝説
アリエノールは、同時代の誰よりも多くの国々を訪れた女性です。12世紀の女性の大半はほとんど移動することなく、おとぎ話の城というより牢獄に近い要塞に閉じ込められて暮らしていました。ところが後世に伝わる第2回十字軍の記録では、アリエノールに数々の姦通の噂が付け加えられます。一人は叔父にあたるアンティオキア公レーモン、もう一人はあの有名なムスリムの指導者サラディン――当時サラディンはまだ10歳前だったという事実など、お構いなしです。こうしてアリエノールの「黒い伝説」が始まりました。
彼女の振る舞いは、当時の規範から危険なほど逸脱していました。一方、ルイ7世はますます敬虔になり、夫妻の関係は悪化の一途をたどります。王妃に男子がいないこともあり、1152年、二人の結婚はついに血縁(近親婚)を理由に無効とされました。これは単なる離縁ではありません。アリエノール自身も別居を望んで同意していたのです。
後添えとしてルイ7世が最初に娶ったのは、より賢明で従順なカスティーリャ王女コンスタンスでした。彼女は1160年、二人の娘を産んだ後に難産で亡くなります。三度目の妃シャンパーニュのアデルは、のちのフランス王フィリップ2世(尊厳王)の母となります。
しかしアリエノールは、手ぶらでフランス宮廷を去ったわけではありません。持参財産としてアキテーヌを取り戻し、30歳という中世女性にとっては高齢でありながら、再びヨーロッパ屈指の縁談相手となったのです。すでに二度の誘拐未遂を免れていた彼女のもとに、若きアンリ・プランタジネットが求婚に現れます。
アンジュー伯でありイングランド王の孫にあたる彼は、ル・マンの生まれでアキテーヌの隣人でもありました。彼はアリエノールの魅力にも所領にも心を動かされたのです。アリエノールの方が11歳年上でしたが、そんなことは問題ではありません。修道院に隠退することが当然視されていたかもしれない彼女は、そんな考えを微塵も抱かず、婚姻無効からわずか8週間後に再婚を果たします。
王への陰謀
ルイ7世にとって第一の屈辱。元妻の新しい夫が、1154年にイングランド王となったのです。アリエノールはフランス女王ではなくなったものの、今度はイングランドの女王となります。さらに痛烈な二度目の屈辱。彼女は新しい夫との間に8人の子をもうけ、うち3男が父の王国を継ぐことになったのです。若王アンリ、獅子心王リチャード、そして失地王ジョン。
しかしアリエノールの再婚も決して平坦なものではありませんでした。指導力と権力を備えた彼女は、息子たちと共謀して夫の打倒を図ります。計画が発覚すると、彼女は15年間も幽閉されました。まずシノンに、次いでソールズベリーに監禁されたのです。
1189年に完全に自由の身となると、彼女は在位する息子たちの貴重な支えとなりました。リチャードが第3回十字軍へ向かった際、アリエノールは婚約者のナバラ王女ベレンガリアをキプロス島まで送り届け、婚礼を挙げさせます。二人の女性はその後、ブリテン諸島へ帰還しました。十字軍からの帰路、オーストリアで捕虜となったリチャードの身代金として莫大な額が要求されると、アリエノールはその集金に奔走し、自らマインツまで運んだといいます。また、臣民に憎まれた君主となった息子ジョンにも助言を与え続けました。
アリエノールは80歳を超える大往生を遂げました。出産による死亡率が深刻な禍であった時代の女性としては、驚くべき長寿です。彼女は四世代の君主たちを見届けることになります。精力的な外交使節としての任務の合間には、女性が院長を務めるフォントヴロー修道院の静寂の中で休息を取りました。1204年、彼女はそこに永眠します。今もなお、名もなき人々の手によって、彼女の横臥像には定期的に花が供えられているのです。
さらに知るために
『アリエノール・ダキテーヌ』マルタン・オレル著、PUF、2020年
『アンヌ・ド・ブルターニュ』クレール・ロエール著、ファヤール、2020年
強き摂政ブランシュ
ブランシュ・ド・カスティーリャは、ルイ8世の妃としてよりも、聖王ルイ9世の母としてよく知られています。しかし、彼女の結婚は一つの驚きに満ちた出来事でした。1200年、アリエノール・ダキテーヌは80歳にしてカスティーリャへ赴き、フランス王太子の花嫁となるべき王女を迎えに行きます。老いてなお確かな眼識を持つアリエノールは、すぐに妹のブランシュの方が姉ウラカよりも優れた資質を持つことを見抜きました。フランス人には耳障りなウラカという名前もあって、彼女は12歳のブランシュを選び、フランスの宮廷へ連れ帰ったのです。1214年にルイ9世を出産したブランシュは、1226年に未亡人となります。12歳で即位した息子の権威が諸侯に脅かされたとき、彼女は断固としてこれを守り抜きました。アリエノールの選択は、間違いではなかったのです。