ドイツ領南西アフリカの概要
ドイツ領南西アフリカ(独語:Deutsch-Südwestafrika)は、1884年から1919年まで存在したドイツの植民地であり、現在のアフリカ南西部に位置するナミビアに相当します。
植民地化の始まり
1883年、ドイツ・ブレーメンの商人フランツ・アドルフ・リューデリッツは、南西アフリカのアングラ・ペケーナ(Angra Pequena)に貿易拠点を設立し、この地を「リューデリッツ湾(Lüderitzbucht)」と改名しました。さらに彼は隣接する沿岸地域を獲得し、「リューデリッツランド」と呼びました。これらの地域は1884年4月24日、ドイツの保護下に置かれた最初のドイツ植民地として成立し、その後ドイツの支配は内陸部へと拡大していきました。
1880年代後半になると、ドイツ植民会社はこの広大な地域を管理する能力がないことを認識し、ドイツ政府が直ちに植民地の行政を引き継ぐことになりました。1890年、ドイツとイギリスの間で結ばれたザンジバル条約(ヘルゴラント=ザンジバル条約)により、ドイツ領南西アフリカは領土の北東端に位置する全長約450kmに及ぶ細長い土地「カプリビ回廊」を獲得しました。この地名はドイツ宰相レオ・フォン・カプリビ伯爵にちなんだものであり、この獲得によって植民地はザンベジ川へのアクセスを得ることとなりました。

先住民族の反乱とその弾圧
1894年から1904年にかけて植民地総督を務めたテオドール・ロイトヴァイン少佐は、コイコイ人の反乱(1894年)とヘレロ人の反乱(1896年)を鎮圧しました。しかしその後の1904年、ヘレロ人ははるかに危険な大規模な反乱を起こします。当初わずか750名の兵力と一個砲兵中隊のみで構成されていたドイツ軍は、近代的な武器で武装した約8,000名の敵軍と対峙しなければなりませんでした。増援によって戦力を強化したドイツ軍は、最終的にロータール・フォン・トロータ将軍の指揮下に入り、ウォーターバーグの戦いで決定的な勝利を収めました。その後もコイコイ人の蜂起は1904年から1907年にかけて徹底的に鎮圧されました。
なお、この時期のドイツ軍による弾圧、特に1904年から1908年にかけて起きたヘレロ人・ナマ人の大量殺戮は「20世紀最初の大量虐殺」とも呼ばれており、2021年にはドイツ政府が正式に謝罪し、ナミビアへの復興支援を約束する合意文書に署名しています。
第一次世界大戦と南アフリカの委任統治
第一次世界大戦(1914年~1918年)において、植民地のドイツ防衛軍は、自軍の10倍もの規模を誇る南アフリカ軍を前にして、1915年7月9日に降伏を余儀なくされました。1919年には南西アフリカは国際連盟の委任統治領として南アフリカに委ねられました。以後、南西アフリカは1990年に「ナミビア」という名称で独立を果たすまで、長く南アフリカの支配下に置かれ続けることとなったのです。