プファルツとは
プファルツ(独語:Pfalz)は、ドイツの歴史において神聖ローマ帝国の有力な世俗諸侯の一人である「宮中伯(プファルツ伯)」の所領として知られる地域です。この称号は、皇帝の不在時に王領を管理する役職に由来しています。
地理的な区分:ライン・プファルツと上プファルツ
地理的には、プファルツは二つの地域から構成されていました。ひとつはライン川沿いのライン・プファルツ(下プファルツ)、もうひとつは上プファルツ(オーバープファルツ)です。
ライン・プファルツは、マイン川とネッカー川という二大河川の間に広がる中流ライン両岸の地域を含み、18世紀まで首府はハイデルベルクに置かれていました。一方、上プファルツはバイエルン北部、ドナウ川へと南流するナープ川の両岸に位置し、東はボヘミアの森まで領域が及んでいました。プファルツの境界線は、歴代のプファルツ伯家の政治的・王朝的な運命とともに大きく変動していきました。
中世の起源とヴィッテルスバッハ家の支配
初期中世のドイツにおいて、宮中伯は皇帝の不在時に王領を統治・管理する役割を担っていました。12世紀になると、ロートリンゲン(ロレーヌ)のプファルツ伯の所領が、独自の領邦としての(ライン)プファルツへと再編されます。
1214年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はこれらの土地を、ヴィッテルスバッハ家出身のバイエルン公ルートヴィヒ1世に与えました。以後、この由緒あるバイエルンの王朝は、その後の歴史を通じて幾つかの系統に分かれながらも、プファルツの統治を続けることとなります。
1329年の王朝内部の取り決めにより、バイエルン北部辺境地方はバイエルン本家のヴィッテルスバッハ家から分離され、ライン地方も領有していた一族の分家へと譲渡されました。この北部辺境地方は、後に「上プファルツ(オーバープファルツ)」として知られるようになったのです。
金印勅書による選帝侯の地位
14世紀から15世紀にかけて、プファルツ伯たちは自国に安定した統治と繁栄をもたらしました。彼らは教皇や皇帝の普遍主義的な野心に対抗して、ドイツ諸侯の権利を擁護する立場で戦います。その結果、1356年の金印勅書によって皇帝選出への参加権が正式に認められ、プファルツ伯は神聖ローマ帝国における世俗諸侯、すなわち選帝侯の地位を確立したのです。
宗教改革と三十年戦争の悲劇
宗教改革の初期、プファルツはローマ・カトリックの信仰を保っていましたが、1560年代に選帝侯フリードリヒ3世のもとでカルヴァン主義を受け入れました。こうしてプファルツは、ドイツにおけるプロテスタント陣営の堡塁となっていきます。1608年には、選帝侯フリードリヒ4世がプロテスタント諸侯の軍事同盟「プロテスタント同盟」の盟主に就任しました。
しかしその息子であるフリードリヒ5世が1619年にボヘミア王冠を受諾したことが、三十年戦争勃発の引き金の一つとなり、プファルツにとって破滅的な結果をもたらしました。フリードリヒ5世は1620年にボヘミアから追放され、1623年にはドイツ国内の所領と選帝侯位を剥奪され、これらはバイエルンへと移されました。カトリック軍の進撃により、ライン・プファルツは徹底的に荒廃させられました。
1648年のウェストファーレン条約により、フリードリヒ5世の子カール・ルートヴィヒがライン地方の所領と新たな選帝侯位を回復します。ただし、上プファルツはその後もバイエルンの支配下に留まることとなりました。
ルイ14世の侵攻と大規模な移民の波
大同盟戦争(1689年~1697年)では、フランス国王ルイ14世の軍隊がライン・プファルツを蹂躙し、多くのドイツ人が故郷を捨てて移住せざるを得なくなりました。アメリカ初期のドイツ人入植者の多く、いわゆるペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)として知られる人々の祖先は、実はこのプファルツからの避難民だったのです。
ナポレオン時代から近代国家へ
フランス革命戦争およびナポレオン戦争の時期には、ライン川西岸のプファルツ領はフランスに併合され、東岸の領土はおおむね隣接するバーデンとヘッセンの間で分割されました。ナポレオン敗北後のウィーン会議(1814年~1815年)により、東岸地域はバイエルンに帰属することになり、これらの地域は周辺部の一部とともに1838年に再び「プファルツ」の名称を採用しました。
第一次世界大戦でドイツが敗戦すると、フランス軍は一時的にライン地方を占領しました。
第二次世界大戦後のプファルツ
第二次世界大戦後、ライン地方の一部は、当時の西ドイツに新設された連邦州ラインラント=プファルツ州(Rheinland-Pfalz)へと編入され、今日に至っています。