オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck、1815年~1898年)は、プロイセン出身の軍人・政治家です。シューンハウゼンの地主の家に生まれ、分裂していた39のドイツ諸邦を統一し、1871年から1918年まで続いたドイツ第二帝国の基礎を築き上げました。政敵に対して一切妥協を見せない強硬な政策から、「鉄血宰相」あるいは「鉄の宰相」として広く知られています。

生涯と経歴
ビスマルクは、ユンカーと呼ばれる富裕な地主階級の家庭に生まれました。外交官を志してゲッティンゲン大学およびベルリン大学(フンボルト大学)で法学を学んでいます。
その後、保守派の人脈を通じて政界入りし、プロイセンの駐ロシア帝国大使や駐フランス大使を務めました。1862年、プロイセン王ヴィルヘルム1世によって首相に任命されると、ドイツ諸邦の統一事業に本格的に着手することになります。
リアルポリティク(現実政治)とは
「リアルポリティク(Realpolitik)」とは、19世紀ヨーロッパにおける政治思潮を指すドイツ語の用語で、「力の現実政治」とも訳されます。
リアルポリティク、すなわち政治的現実主義は、「政治はイデオロギーや道徳原理から自由であるべきだ」という原則に基づきます。国家の政治的目的は、たとえ戦争を辞さねばならないとしても、自国の平和と秩序を保障することにあると考えたのです。
こうした思想は決して目新しいものではありません。すでに15世紀には、ニッコロ・マキャベッリが著書『君主論』の中で同様の見解を示しています。
ビスマルク自身もまた、普通選挙権、議会の意思決定権の拡大、報道の自由といった当時のリベラルな思想に対して強い懐疑心を抱いていました。そこで彼が実践したのが、いわゆる「リアルポリティク」だったのです。
彼の政治的資質をよく表す言葉として、次の一節が残されています。
「自由とは、誰もが手にできる贅沢ではない。」
実際、首相就任直後のビスマルクは議会を解散させ、新聞への検閲を布告し、「鉄と血」によるドイツ統一の推進へと突き進んでいきました。
ドイツ統一への道
39のドイツ諸邦を統一するにあたり、二つの構想が並存していました。
ひとつはオーストリアが主張した「大ドイツ主義」です。これはハンガリー人、スロバキア人、チェコ人など、オーストリア帝国領内の諸民族まで含めて統合する案でした。
もうひとつが「小ドイツ主義」です。こちらはドイツ語圏の諸邦のみをプロイセン国王の支配下に統合し、オーストリア帝国を排除するという提案でした。
この時期、北ドイツ連邦は関税同盟(ツォルフェライン/Zollverein)を通じて、関税と通貨の統一を推進しました。この政策により、各小邦ごとに異なっていた税率や通貨が撤廃され、単一の関税体系と通貨へと統合されていったのです。
三大戦争とドイツ帝国の成立
ドイツ諸邦をプロイセン主導の統一案へ参加させるため、ビスマルクは対外戦争という政治的手段を積極的に活用しました。芸術的・人文的な価値よりも、ドイツの「軍事的価値」を常に前面に出したことで知られています。
こうして彼は、デンマーク、オーストリア、そしてフランスとの間に相次いで戦争を引き起こします。これらの紛争を経て、ドイツの重工業は世界最高水準へと飛躍的に発展を遂げました。
なかでも決定的だったのは対仏戦争(普仏戦争)です。ドイツ第二帝国の樹立はフランスのヴェルサイユ宮殿内で宣言され、敗れたフランスは賠償金の支払いと、石炭資源に恵まれた重要地域(アルザス=ロレーヌ)の割譲を余儀なくされました。
ドイツの勝利は揺るぎないものでしたが、この結果はフランス国民の間に強い反独感情を植え付けることとなり、やがて第一次世界大戦へとつながっていくのです。
宰相としての晩年
プロイセン王国とドイツ帝国への多大な功績により、ビスマルクは伯爵、侯爵、公爵といった貴族称号を次々と授けられました。
ヴィルヘルム1世の治世下、ビスマルクは君主からの絶大な信頼を得ていました。しかし1888年にヴィルヘルム1世が崩御し、後継者ヴィルヘルム2世が即位すると、両者の政策路線は鋭く対立するようになります。
1890年、宰相職からの辞任を迫られたビスマルクは、領地のある田舎へ隠棲しました。そこで執筆した回想録『思考と回顧』は、1898年に他界した後に出版されています。