ドイツ統一は、ヨーロッパ経済を左右するほどの強大な国家の出現を恐れる周辺諸国の抵抗に直面しながら進められました。この過程は19世紀を通じて展開され、三次にわたる戦争と巧みな同盟外交を経て1871年のドイツ帝国成立へと至り、やがて第一次世界大戦の遠因となっていきます。
19世紀前半、後のドイツとなる地域は38の邦国からなるドイツ連邦を形成しており、その盟主の座にはオーストリアが就いていました。オーストリアにとって、ドイツ諸邦の政治的分裂は都合の良いものでした。分裂状態は経済発展を鈍らせ、当時のドイツ地域が依然として農村主体の社会にとどまることを意味したからです。
状況が変わり始めるのは、プロイセン主導のもとでドイツ諸邦の関税同盟ツォルフェライン(Zollverein)が創設された1834年頃です。関税同盟は工業化の拡大を可能にし、国民統一に終始反対し続けたオーストリアを排除する形となりました。
ドイツ統一の最大の推進力となったのは軍事力の強化です。モルトケ将軍の指揮下で近代化されたドイツ軍は、軍を掌握していたプロイセン貴族と上層ブルジョアジーの結合によって強固に支えられていました。
プロイセン貴族はユンカーと呼ばれ、1862年にはオットー・フォン・ビスマルクをプロイセン宰相に任命します。ビスマルクの政治手法の特徴は、軍備増強と戦争によって国民統一を達成しようとする、いわゆる「鉄血政策」にありました。
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シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)
1864年に始まったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は、ドイツ統一の過程における最初の戦いでした。ウィーン会議の決定により1815年以降デンマークが統治してきたシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をめぐり、ドイツ諸邦の軍隊がデンマークに対して団結して戦いました。
1863年、ドイツ系住民が暮らすこれらの領土をデンマークが併合すると、ビスマルクはオーストリアの支持を得て両公国をドイツ側に取り戻すことに成功します。しかし、ビスマルクはオーストリアとの同盟関係を保ちながらも、領土補償を回避するための先制的な外交を展開し、フランスおよびイタリアとの接近を図っていきました。
普墺戦争(七週間戦争)
「七週間戦争」としても知られる普墺戦争は1866年に勃発し、プロイセンが勝利を収めました。この戦争の結果、プラハ条約が締結され、ドイツ連邦は解体されることとなります。
プロイセンは南ドイツ諸邦の編入をもくろみましたが、フランス皇帝ナポレオン3世がこれに強硬に反対し、プロイセン攻撃をほのめかしながら、ドイツがヨーロッパ最大の強国となることへの懸念を明確に示しました。
普仏戦争
普仏戦争は1870年に始まりました。きっかけは前年、スペイン王位継承候補であったホーエンツォレルン家のレオポルト王子の立候補をナポレオン3世が拒否したことにあります。プロイセンはフランスに宣戦布告し、見事勝利を収めます。
その結果締結されたフランクフルト条約により、ドイツは鉄鉱床に富むアルザス=ロレーヌ地方を併合することになりました。
さらにフランスには多額の戦争賠償金が課せられ、ドイツは南ドイツ諸邦を編入して第二帝国(ドイツ帝国)を樹立します。1871年1月にはヴェルサイユ宮殿においてヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位が宣言されました。なお、第一帝国(第一ライヒ)は中世に始まる神聖ローマ帝国の時代を指し、第三ライヒはアドルフ・ヒトラーの政権掌握によって画される時代です。
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ドイツ統一の影響
- ドイツ帝国の成立
- ウィーン会議以来保たれてきたヨーロッパの勢力均衡の崩壊
- フランスにおける復讐心(リヴァンジュ)の高まり
- ドイツにおける産業革命の本格的な進展
- 製品の販路をめぐるイギリスとの対立
- フランスの孤立化の促進
- 三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)の結成――第一次世界大戦の一方の陣営
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