ポツダム会談(ポツダム会議)は、1945年7月17日から8月2日にかけて、ドイツのポツダムで開催された国際会議です。会議名は開催地であるドイツの都市ポツダムに由来しています。
ポツダム会談の目的
ポツダム会談の主な目的は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行った行為に対する賠償額を確定すること、そして戦後のドイツの分割統治の方針を定めることでした。
会談の中心となったのは、すでに勝利が確実視されていた連合国側の3か国、すなわちアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦(USSR)です。
各国の代表は以下の通りです。
- アメリカ:ハリー・S・トルーマン大統領
- ソ連:ヨシフ・スターリン書記長
- イギリス:クレメント・アトリー首相
なお、会談の開始時にはウィンストン・チャーチル首相がイギリス代表として出席していましたが、会談途中に行われた総選挙で労働党が勝利したため、後半はアトリー首相に交代しました。
賠償額とドイツ分割の取り決め
会談の結果、ドイツは総額200億ドルの賠償金を支払うことが決定されました。その内訳は以下の通りです。
- ソビエト連邦:50%
- イギリス:14%
- アメリカ:12.5%
- フランス:10%
さらに、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国による占領地域へと分割されることになりました。この分割方針は、その後の東西ドイツ分裂へとつながっていきます。
日本との関わり:ポツダム宣言
ポツダム会談の期間中にあたる1945年7月26日、アメリカ・イギリス・中国の名において「ポツダム宣言」が発表されました。これは日本に対し無条件降伏を求めるものであり、日本の戦後処理の方向性を大きく左右しました。ソ連は対日参戦直後の8月8日にこの宣言に加担しています。
テヘラン会談・ヤルタ会談との関係
ポツダム会談以外にも、連合国間では戦後の国境や勢力圏、利害関係を協議するための首脳会談が複数回開催されました。
まず、テヘラン会談が1943年11月28日から12月1日まで、イランのテヘランで開催されました。これは第二次世界大戦の終結前に開かれた、最初の米英ソ三国首脳会談です。
続いて、ヤルタ会談(クリミア会談)が1945年2月4日から11日まで、クリミア半島の都市ヤルタで開催されました。
そして最後に、戦後処理を主題としたポツダム会談が開かれました。第二次世界大戦中、アメリカ・イギリス・ソ連による首脳会談は計3回行われたことになります。
サンフランシスコ平和条約
1951年には、アメリカ・カリフォルニア州のサンフランシスコで対日講和会議が開かれ、「サンフランシスコ平和条約」が調印されました。約50か国が条約に署名し、第二次世界大戦後の世界平和の確立と日本の国際社会への復帰が定められました。
トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プラン
第二次世界大戦中は同盟関係にあったアメリカとソ連でしたが、ソ連型共産主義の拡大はアメリカにとって次第に大きな懸念材料となっていきました。
こうした背景から、1947年以降トルーマン・ドクトリンが打ち出されます。その中心的な狙いは、ソ連の共産主義の拡大を封じ込めることにありました。同時に、戦争によって疲弊したヨーロッパ諸国の復興と体制の安定を支援する意図も含まれていました。
外交・経済・軍事を含むこれらの一連の戦略的措置は、ハリー・S・トルーマン政権期(1945年〜1953年)に提唱されたものです。
ここに至り、二つの超大国であるアメリカとソ連は敵対関係へと転落します。これが軍拡競争を引き起こし、世界を資本主義陣営と社会主義陣営の二つのブロックに分断する冷戦へと発展していきました。
トルーマン・ドクトリンと連動していたのが、マーシャル・プラン(欧州復興計画)です。低金利での融資を通じてヨーロッパ諸国の復興を支援することを目的としたものでした。
トルーマン・ドクトリンもマーシャル・プランも、ヨーロッパ諸国へのソ連共産主義の拡大を食い止めるためのアメリカの戦略だったという点で共通しています。
関連するテーマ
- 第二次世界大戦
- 第二次世界大戦の原因
- 第二次世界大戦の影響
- ナチズム