神聖同盟(しんせいどうめい)は、1815年のウィーン会議後に、ヨーロッパの列強君主国であるロシア、オーストリア、プロイセンを中心として締結された軍事協定です。イギリスも四国同盟などを通じてこの体制に深く関与しました。
概要
神聖同盟の条約は、1815年9月26日にパリで調印されました。
同盟の結成を提唱したのは、ロシア皇帝アレクサンドル1世です。その核心にあったのは、「正義とキリスト教信仰の理念」を維持し、ヨーロッパ全体に広めていくという考え方でした。
しかし、条約の根拠とされた宗教的原理の裏には、絶対主義を国家哲学として守り抜こうとする君主たちの意図が隠されていました。当時、絶対主義はヨーロッパにおける支配的な権力体制だったのです。
目的
神聖同盟の目的は、ヨーロッパの均衡、復古政策、そして正統主義(レジティミスム)を脅かす自由主義運動の弾圧にもありました。
この盟約は当初、オーストリア、プロイセン、ロシアの3か国によって調印されました。その後、フランスは1818年にこの軍事協定の原則に加盟しています。
神聖同盟の主な行動
- 1819年: ドイツで蜂起しようとした反乱勢力の活動を抑圧
- 1821年〜1822年: 君主制絶対主義に対抗する自由主義者と戦うため、ナポリとスペインへ軍隊を派遣
- アメリカ大陸方面: 植民地を奪回し、旧来の植民地主義を復活させるための軍事行動を計画
神聖同盟の終焉
アメリカ大陸との貿易で得られる利益は、イギリスにとって神聖同盟への最大の障壁となりました。
アメリカ大陸への介入行動は、すでにイギリスが結んでいた通商上の協定を損なう恐れがあったため、イギリスは同盟から離脱していきます。
さらに、アメリカ合衆国の台頭も、同大陸における軍事介入の継続を困難にしました。1823年には「アメリカはアメリカ人のためのもの」という標語を掲げたモンロー主義が宣言されます。
モンロー主義の核心は、アメリカ合衆国が主導し、ヨーロッパ諸国によるアメリカ諸国への干渉を、武力衝突も辞さずに防ぐというものでした。
こうして神聖同盟の野望は海外で挫折するだけでなく、ヨーロッパ内部でも打ち砕かれます。複数の国々で絶対主義に代わって議会制が導入されたのです。
ウィーン会議との関係
神聖同盟の基盤となったウィーン会議は、旧体制(アンシャン・レジーム)の復活を目指しました。同時に、フランス革命後の混乱を収拾し、旧王朝の正統性を回復させるとともに、ヨーロッパの勢力均衡を再構築することも目標とされていました。
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